無意識さんとともに

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支配からの卒業〜私が私であるために 1 支配者は悪魔とは限らない

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない

正しいものが何なのか それがこの胸に解るまで」

(『僕が僕であるために尾崎豊

 

「これからは何が俺を縛り付けるだろう

あと何度自分自身卒業すれば

本当の自分にたどりつけるだろう

仕組まれた自由に 誰も気づかずに

あがいた日々も終わる

この支配からの卒業

闘いからの卒業」

(『卒業』尾崎豊

 

本当の自分でいたい、それは誰もが持っている根源的な欲求かも知れません。

そうして、どうしたら、そんな素のままの自分になれるんだろうと思って、人は道を求めるのでしょう。

本来の自分になるためには、何が正しくて何が間違っているのか、それをはっきりさせなければならないと、思うことがあるのです。

そういう、善悪の知識が自分を自由にしてくれて、鳥籠の中に閉じ込められた自分から解放してくれると夢見ることも一度や二度ではないかも知れません。

そうして、真実の自分、空を自由に飛べる小鳥のような自分を求めて、あれやこれや素晴らしいことを約束してくれる人に自分を委ねるのでしょう。

そうやって、誰かに身を委ねると、最初は甘く素晴らしい感じが確かにあるのです。これは素晴らしいと思うのです。

けれど、そうやって委ねて頼っていくと、甘さが苦さに変わります。

でも、甘さが苦さに変わったとて、もうその時は逃げることができない。

最初は、私が私であるために、何が良くて何が間違っているかそういう知識を求めたはずなのに、私自身になるために、信じて委ねたはずなのに、こんなはずじゃなかった。

そう思ったのに、もう簡単に逃げることができないのです。

どこかで逆転してしまって、自分が自分になるためではなく、人に認められるために信じ従うことになっているのです。

人に認められるためには、自分を捨てる必要があると突きつけられてくるのです。

そうやって、鳥籠から出してくれると約束されたはずなのに、さらにもっと狭い鳥籠に入れられていくのです。

 

支配者は悪魔ではありません。

もちろん、悪魔のような支配者もいますが、そういう支配者は分かりやすい支配者なのです。

支配者は悪をおこなうから支配者なのではなく、善をおこなうから支配者なのではないのでもありません。

善をおこなうにしても悪をおこなうにしても、支配者は支配するためにおこなうのです。

支配するために有効であれば、悪をおこなうこともあれば、善をおこなうこともあります。

よくあるパターンは、宗教のように、最初は良かったが後になって悪くなった、最初は甘かったが後になって苦くなったというものです。

あるいは、逆に、ヤクザのように、すごく悪く見える人が、ある時、実はすごく良い人のように、ムチとアメを使い分けて、混乱させる場合もあります。

こういうパターンにハマった人は、支配者や支配(宗教でもスピリチュアルでも占いでもオカルトでも)、それがいいのか悪いのか、わからなくなって混乱します。

混乱するから、そこから出れなくなります。

体が痺れて動かなくなるのです。

これこそ、まさに99%の真実と1%の嘘、99%の美味しいものに1%の毒を混ぜ込んで、相手を支配する支配者のやり方なのです。

 

だから、支配は善悪で判断することなどできません。

善悪で判断すれば、支配から永久に出ることはできないのです。

例えば、オウム真理教の脱会者の手記を読んでみると、教祖の麻原について、最初からとんでもない詐欺師には見えないのです。

とても優しい、思いやりのある、進んで人を助けてくれるそんなふうな記憶が確かにあるのです。

それが演技だったのか、それとも本当だったのか、考え始めると、いつまで問うても答えを得られず、そこから抜けきれないのです。

そういう、善悪の基準で支配を判断することなど、人間にはできないのです。

 

そうではないのです。

善悪ではなく、ただひとつ『これは自分が本来の自分になるのに役立つか』ということが唯一の基準です。

本来の自分、つまり、意識と無意識の統合された自分になることを促してくれるなら、それは支配ではありません。

けれど、自分が自分であることを妨げるものは、善であれ悪であれ、聖であれ俗であれ、何であれ、支配です。

支配者に似た存在になることは自分が自分であることでしょうか?

神に従うことは自分が自分であることでしょうか?

宇宙の法則に従うことは、星や運命や霊的な存在に左右されることは、人間を超えた力を持つことは、私が私であることになるのでしょうか?

もちろん、いろいろな支配者が「あなたがあなたになるためには、本当の自分になるためには、これを信じなければならない、これをしなければならない」と言います。

けれど、「これを信じなければならない、これをしなければならない」という言葉の裏には、その先には、「あなたを捨てなければならない」という言葉が隠されているのです。

一体、私以外のものを信じて、私の心以外のものに聞き従って、私を捨てて他のもののコピーになって、私自身になることなどできるでしょうか?

自分自身になるためには、自分を卒業するのではなく、支配者の支配を卒業するのです。