支配者という言葉を持ち出した時、その人は即座に拒否して言いました。
「誰かを悪者にしたくない」
人間を『支配者・虚無・光の人』の3タイプに分けることは、新たな善悪の物語ではないのです。
「誰かを悪者にしたくない」と言った人は、おそらく性善説に立っておられるのでしょう。
また、性善説とは対照的に、「この世も人間も悪だ」という性悪説も確かにあります。
性善説も性悪説も。何が善で何が悪か、何が正しくて何が間違っているかという善悪の物語を織り成しているのです。
そうして、いわば、性善説は、すべての人を愛する神の物語であり、性悪説は、すべての人を憎む悪魔の物語なのかもしれません。
けれど、人間は、性善説にも性悪説にも徹底することなどできないようです。
すべての人を愛することもすべての人を憎むこともできないのです。
だから、愛したと思ったら憎んでみたり、憎んでいると思ったら愛していることが分かったり、愛憎のジェットコースターから降りられないのです。
実際には、どんな理想の親も神も宗教も思想も社会も世界も、自分自身も、完全に善で正しいということはあり得ません。
そう信じていたとしても、すでにそう信じようという努力自体が、そうでないことを示しているのかもしれません。
すべては、善と悪、正しさと間違いのまだら模様なのかもしれません。
そうして、このまだら模様から抜け出そうと、その中から何が本当に善いもので何が悪いものなのか、何が本当に正しいもので何が間違っているものなのか、自分で区別しようとすると、永遠のぐるぐるの中に巻き込まれて、そこから抜け出すことができないのです。
ただ、エネルギーを放出して、摩耗していくばかりなのです。
例えば、『あの人が悪い』と判断したところで、返す刀で自分が本当に善かったかというとそんなことはなく、『自分も悪いところがあったかもしれない』となりますし、かと言って、『自分が全部悪かった』と懺悔してやり直そうとしても、裏では『でも周りの人も悪かったよね』と思っているものです。
そうして、この判断は、時とところでいつまでもぐるぐると入れ替わり立ち替わり、終わることがないのです。
罪悪感とは、ただ自分を責めるだけの話ではなくて、人を責めては自分を責め、自分を責めては人を責める、いつまでも終わらないシーソーゲームのことなのかもしれません。
しかし、O先生が心から聞いた『支配者・虚無・光の人』というのは、新たな善悪の物語ではないのです。何が本当に正しくて何が間違っているかという話ではありません。
私はある時、O先生に質問しました。
「キリスト教も親子関係を言うということは、キリスト教の限界ですか?」
(ここで、「限界です」と答えれば、キリスト教のある部分は正しいけれども、ある部分は間違っているということになるのです)
けれども、O先生はこう答えられました。
「限界ではなくて支配です」
これは青天の霹靂でした。
驚天動地の答えで、私は存在丸ごとひっくり返ったような気がしました。
というのは、O先生の答えは、私の予想を超えていたからです。どこが正しくてどこが間違っているというのではありません。
そうではなくて、支配だと。
そうして、ここで語られた『限界ではなくて支配です』というのは、当然、善悪、正しい間違っているということを言っているのではないのです。
それとは全く別のことを言っているのです。
キリスト教が、あるいは宗教が支配ですというのは、キリスト教が、あるいは宗教が悪であり間違っているということではないのです。
そうではなくて、それが支配だというのは、まさに、キリスト教あるいは宗教は、善悪、正偽の物語によって、人を支配するものだということです。
支配者は、親にせよ、宗教にせよ、スピリチュアルにせよ、占いにせよ、オカルトにせよ、何が善で何が悪か、何が正しくて何が間違っているか、何が当たりで何が外れか…という物語で人間を支配するのです。
ですから、『支配者・虚無・光の人』という分け方は、新たな善悪の物語ではありません。
それは、善悪の物語ではなくて、私の物語なのです。
私が私であるために、私が本来の私になるために、何が役に立って何が役に立たないかということにすぎません。
何が役に立って何が役に立たないかということは、善い悪い、正しい間違っているという話ではありません。
支配者に支配されて善悪の物語を生きることは、それ自体、善い悪い、正しい間違っているという話ではありせん。
ただし、私が私であるために、私が私の人生を生きたいならば、役に立たないことは明白なのです。
何が自分に役に立つか役に立たないか、これはプラグマティズムと名付けることができるでしょう。
自分軸で生きるためには、このプラグマティズムが大切なのかもしれません。
例えば、ある宗教に入ることを考えてみると、最初は、ほとんどの場合、自分に何かしら問題があって、親のこと、失恋、失敗、病気、貧しさ…などの問題があって、それらの自分の問題を解決するために、その信仰が役に立つと判断したから入るのでしょう。
そうして、解決されたような気がして、宗教に入り込むと、今度は、自分中心ではなくなって、自分に役立つからではなくて、この宗教が善だから正しいから信じるというふうに変わっていってしまう。そうして、不思議なことに、もしかしたら、入る前より多くの問題を抱えてしまうのかもしれないのです。
今は、宗教のことを話しましたが、支配者がどのようなものであれ、支配者が人を支配するやり方は、善悪の物語であることには変わりないのかもしれません。
心が私にこんなことを言ったことがありました。
「これからは、極悪人モードでいったらどう?」
これは、神様の前に頭を垂れて「私は罪人です、悪人です」という意味でもなければ、親鸞のいう悪人正機でもないのです。
自分が極悪人というのは、もはや、善悪の物語から外れて、自分軸で、ただ自分が自分を生きるために役に立つか、役に立たないかということで、全てを見るということです。
そうやって世界を見たときに映る姿は、ユートビアではなくディストピアでもなく、ただ美しい世界なのかもしれません。
不思議なことに、善悪を離れて自分軸に帰って、自分に役立つか役立たないかということで支配を素通りしていくと、美しさが現れるのだと思います。