「アバ父よ(アバとはイエスが話したアラム語で『お父ちゃん』という意味)、今日、ここに集まった私たちに、あなたが全能の愛であることを示してください。愛するイエス・キリストのお名前によって、アーメン」
祈り終えると、田中君と成島君の顔に、?が浮かんでいるような気がした。もしかしたら、早速、私が語った『全能の愛』という言葉に反応したのかもしれない。
そう思ったが、もう自分が話そうとしている内容について後戻りはできない。
私は話し始めた。
「神は全能だと言われています。つまり、神は何でもできるお方だと。全能という言葉、何でもできるということからはどんなイメージが浮かぶでしょうか?
旧約聖書では、神は『万軍の神』として示されています。すなわち、神は万軍を率いる君主のようなお方ということになるのです。
けれど、新約聖書では、イエス様は、神概念を転換されたのです。
そうして、神を『アバ』と、親しみを込めて呼ばれました。
さらに、使徒ヨハネは、大胆にも、『神は愛である』と言ったのです。
『神は愛である、愛のあるのものは神を知っており、愛のないものは神を知らない』と言い切ったのです。
そうすると、愛とは神の性質のひとつではありません。
性質ではなくて、本質なのです。
だからこそ、『愛のあるものは神を知っており、愛のないものは神を知らない』と言われているのです。
そうすると、どういうことになるでしょうか?
神が全能であるなら、そして、神の本質が愛であるなら、神は愛において全能であり、神は全能の愛と言えるのではないでしょうか?」
私は身体が熱く燃えているように感じた。
秋だというのに、背中に汗が流れ、額にも汗が流れ落ちた。
「愛の全能なら、神はどんな人も諦めずに救うお方なのです、信仰があろうがなかろうが。神を個人的に親しく知っているかどうかは、信仰によるのではないのです。
『愛のあるのものは神を知っており、愛のないものは神を知らない』と、愛があるかどうかだけによるのです。
だから、『私は神を知っている』と信仰を誇り愛のないものは神を知らず、神を信じなくても愛のあるものは神を知っているのです。
けれど、そのどちらも、全能の愛である神によって造り変えられるのです。なぜなら、神を知っていても知らなくても、全能の愛である神には知られているのですから。
そうして、神は必ずすべての人を救い、すべてのものを救い、最終的には、悪魔さえも救うでしょう。それほどに、神は愛であり、悪を善に造り変えるほどに全能の愛なのですから」。
私は、田中兄弟と成島兄弟の視線を痛いほどに感じた。