何でも、瞑想の達人の脳は、サイコパスの脳に似ているということを読んだことがあります。
サイコパスは自分自身の喜怒哀楽を持たないがために、感情に揺るがされて、判断を間違えることがないのですが、
瞑想の達人もまた、感情に揺るがされることはないそうなのです。
ただ、瞑想の達人は、サイコパスと違って感情がないわけではないと思います。
けれど、感情にゆるがされないとはどういうことなのでしょうか?
それは、昨日、書いた『無視力』によるものではないかと思うのです。
つまり、自分の中に、悲しみがあったら、『ああ、悲しんでいるな』と観察するだけで、怒りを肯定も否定もしません。同じように、喜びがあったら、『ああ、喜んでいるな』と観察するだけで、喜びを肯定も否定もしないのです。
『無視力』の無視するとは、見ないようにするということではないのです。
見て観察はするのですが、肯定も否定もしないのです。
肯定も否定もしない、つまり無視していれば、それらは移り変わっていくのです。
ですから、瞑想に長けた人は、サイコパスと違って、感情がないわけではありませんが、表面上、サイコパスと似ている脳になってくるのかもしれません。
これを、自分の内側ではなくて、外側に用いるのが、『極悪人モード』です。
もしかしたら、『サイコパスモード』と言ってもいいかもしれません。
心を病む人は、いい人すぎて心を病むのです。
いい人であるというのは、人のゴミ箱になるということです。
人のゴミ箱とは、人のネガティブな思い、言葉、感情…などを自分のものとして引き受けることです。
最初は、相手も感謝して、『こんなこと、あなたに言っていいのかしら』といいのですが、そのうち、自分の心のゴミをあなたというゴミ箱に捨てるのが当たり前になってしまいます。
そうして、やはり、最初は、これは人からもらったゴミだとわかるのですが、そのうち、人からもらったゴミが自分のゴミのような気がしてくるのです。
そこまで至ってくると、自分から人のゴミ箱になって、相手のゴミを自分のゴミとして受け取らないと、自分は認められないという自動ゴミ箱になってしまうのかもしれません。
いい人の末路とはそういうものです。
ですから、『極悪人モード』『サイコパスモード』と唱えることは、そういうゴミ箱であることを止めることです。
いや、止めることは自分でできませんから、止めようとするのではなく、『極悪人モード』と唱えて、極悪人としての演技をするということです。
極悪人なら、人のゴミなど受け入れないのです。
『あっしには関わりのねえことでござんす』(昔の木枯らし紋次郎の言葉)と言って、相手のゴミは相手のゴミであって、自分のものではないと、『無視する』のです。
相手が「あなたはゴミ箱なんだから、私のゴミ受け取ってよ」と言ってきたら、
「私は、極悪人です。極悪人ですが、何か」と答えて、スッと立ち去るのです。
ここでいう極悪人、サイコパスというのは、どちらかというと、江戸時代の悪代官にくっついている庄屋のイメージです。
ド派手な犯罪者ではなくて、普段は、目立たず、普通の人のようであって、悪代官に「お主もワルよのう」と言われる小悪党、悪代官が糾弾された時は、悪代官も裏切るような、そういう小狡い極悪人のイメージです。
いい人すぎる人は、支配者や支配者のコピーには、それぐらいやって、多分、普通の人になれる、自分で自分の身を守れるのです。
もちろん、誰にでも、極悪人である必要はありません。
自分をゴミ箱として利用してくる人には極悪人モードで接し、本当の友達には素の自分で接すればいいだけのことです。
そして、瞑想とは、極悪人モードの無視力を養うために役立つのです。
瞑想とは、善人やゴミ箱になるためにするのではありません。
極悪人になって自由になるためにするのです。