無意識さんとともに

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支配からの卒業〜私が私であるために 10 深淵を見ることと罪意識

自分自身の深淵を見ることと罪意識って似ているようで、全然違うものなんですね。

罪意識がまだあるままで、自分の深淵を覗こうとすることは早いかもしれません。

その段階で、自分の深淵を見つめて、自分の破壊欲動(人をも自分をも破壊しようとする欲動)と性欲動(神になろうとする欲動)を見ようとすると、自分を責める罪意識がわーと湧き上がってきて混乱するんです。

そうして、深淵を見ることと罪意識が区別できなくなってしまう。

キリスト教に罪の悔い改めというのがあります。

神の前に、ひたすら、自分の罪を告白して、悔い改める。

私の記憶だと、すごく些細なことを並べ立てる。

「タバコを吸ってしまいました」とか「女性に性欲を抱いてしまいました」とか…

そんなことを告白して、「神様、私は汚れている罪人です。どうか、こんな私の罪を赦し、もう罪を犯さないように助けてください」

けれど、こんな責苦は、深淵を見ることでもなんでもない。

これは、バイ菌が気になって手洗いをえんえんと続ける強迫症と同じです。

さらに、進んでいくと、今度はあれやこれやの罪ではなく、自分が罪人であることを悔い改める。

「私は頭のてっぺんから足の先まで、罪人です。罪を犯したから罪人になったのではない、罪人だから罪を犯すんです、神様、こんな罪人の私を憐んでください」

これは、原罪って言われる考え方です。

この考え方の行き着く先は、絶望でしかないでしょう。

罪意識というのは、これほどまでではないにしても、やはり、『自分って汚いなあ』という一種の潔癖症や『自分ってなんてだめなんだ』という絶望に結びついている。

そういう罪意識と、深淵を見るということは、全く違うということです。

そういう罪意識は、神か親か世間様か何かわかりませんが、支配者の支配の下で起きてきている、けれど、深淵を見るというのは、支配から外れたところで起こるのです。

心に支配と邪魔を排除してもらって、支配から外れて、自分の深淵を覗くと、そこに、破壊欲動と性欲動が渦巻いているのが見える、けれども、それで自分を責める意識は起こらないのです。

まるで、科学者が顕微鏡を覗くように、冷静に自分の深淵を覗く、もちろん、そこに自分というものがあばかれる痛みは鋭くありますが、それは自分を責める痛みではないのです。

支配者のもと吹き込まれた自分の理想像が壊れて、ありのままの自分を見つめる痛みなのです。

そこに至って、深淵を覗く意味が現れ出るのかもしれません。

なぜなら、「人のことはわからない、自分のことさえわからない」が、自分の深淵を覗くことで、直接的にではなく、間接的に、自分の深淵を知る分だけ、人のことを推測できるようになるからです。
まるで、神業のように、人の心の動きを言い当てるO先生は、超能力でも霊能力でもなんでもなく、ただ、自分の深淵を誰よりも深く知っているが故に、そういうことができるのだと私は思います。