私は、このモンスター、性的なものとの闘いに明け暮れていました。
この闘いに勝たななければ、まともな人間、いや、先ほども書いたように実は天使という存在になれないと思っていたのです。
もう、何の色も濁りも持たない、透明な存在、天使になれば、母にも周りの人間に受け入れられると思っていたのかもしれません。
私がもっとも好きだった聖フランシスという聖人でさえ、制欲に苦しんで、「神様、神様」と言いながら、雪の中を転げ回ったと言います。
私も、祈り、断食をし、聖書を読み、何とか、この性欲を根こそぎ引き抜こうと思いました。
けれど、そうすればそうするほど、このモンスターは巨大化していったのです。
実は、リアルに去勢しようと思い詰めたことさえあります。
韓国では日本よりキリスト教が盛んですが、去勢してくれる医者がいるそうです。
一方では、このように、性的なものとの闘いの中にあったのですが、もう一方では、私は理想的な母親を求めていました。
理想的な母親を求めて、恋愛をしていったのです。
それが、母親関係の再上演になることは避けられません。
理想的な母親とは、聖母マリヤのような存在なのかもしれません。
愛に満ち満ちた母にして、性的なものを一切匂わせない処女でもある存在。
もとより、そんな人が現実にいるわけはありません。
だから、そういう人を求めても、生身の存在であるリアルな人を前にして、私の性欲はさらに膨れ上がり、それを抑えようとしてさらに苦しむということになったのです。
もとより、キリスト教は婚前交渉を禁じています。
そうして、解放の日がやってきました。
私は、あらゆる手段を使って、全力を尽くして、性欲を抑え込み、抑え込み、抑え込み、ついには、成功したのです。
『私はこのモンスターに打ち勝った!』
と叫び出したい、誇らしい気持ちでした。
けれども、性と生は一体のもので、同時に、私は生きるエネルギーを封印し、枯渇させ、無事めでたく、鬱になったのです。
そうして、前のクリスチャンの妻に、結婚後、求められても、私は全く反応できなくなり、ついにはそのことで離婚されてしまいました。
(自分の母親と同じく、前の妻にも性欲があることを知った時は、晴天の霹靂でした)
私は、それから17,8年も鬱の中にいました。
大嶋先生の本に出会い、FAPを受けるまでは。
それで、自分を閉じ込めてきた母とキリスト教に対する怒りとトラウマは消え去ったのです。
けれども、私は限られたエネルギーをやりくりして、何とか毎日を送っている感じは否めかったのです。
そうして、自分の中に押さえ込まれた怒り=リビドーにもう一度、向き合わなければならなかったのです。