小説を書いていて、自分が癒されるきっかけとなったターニングポイントを思い出したんです。
それは、乞食であることをやめたことです。
私は、いわば、母親の乞食として育てられたのです。
「お前は何もできない、何も持っていない。哀れな乞食だ。けれど、私はそんなお前を憐れんで、お前に必要なものを与えてあげる、だから私の言うことを聞くんだよ。逆らってはいけないよ」と。
そうして、私は、傍目には可愛がられて育てられたように見えたのですが、自分で何かを望んだり、決めたりすることができませんでした。
そういうことを望んだり、決めたりしようとすると、それは逆らうこととみなされ、必ず失敗して挫折するものと言われ、事実、その通りになったのです。
私は、自分は何の力もないものとして、自分を見るようになっていったのです。
だから、私がキリスト教に入信したのは、母親よりもマシな親として、神の乞食(ルターは私たちは神の乞食であると言っています)になろうとしたわけです。
自分は罪を犯すより他に何もできない、あわれで惨めなゴミのような存在、そうして、ひたすら、外にある神の力によりすがって生きるしかない存在。
しかし、そう思えば思うほど、救われるどころか、ますます弱っていって、私はついには3度の自殺未遂をしました。
そうして、さらには、もう自殺する気力もないほどの状態に追い込まれました。
その時に、自分の中から、「違う、違う、違う、だめだ、だめだ、だめだ」というとめどもない叫びが噴出してきたように思います。
それは怒りであり、同時に、莫大なエネルギーであり、支配と嘘と呪いをビリビリに引き裂くものであったのかもしれません。
「力は外にあり、私はそれにすがるしかない」というのは、絶対的に違うのであり、
「私は母親の、また神の乞食」となっては、絶対にだめだという心の奥底からの咆哮です。
力は決して外にあるのではなく、自分の内にあるのです。
何かに依存すればするほど、自分の力はなくなり、自分のリソースは固く封印されていくのです。
そのことに気づく時、それこそが、夜と昼が入れ替わるターニングポイントなのです。