無意識さんとともに

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黎明〜鬱からの回復 63 瞑想

それから、私は、とりあえず眠れなくても、朝起きるようにした。

睡眠時間が2時間というのはざらだったが、そんな日が数日続くと、何とか、5、6時間眠れる日も出てくる。

その後、また眠れない日が続いて、そう簡単なものではなかったが、それでも昼夜逆転は少しずつ、普通のリズムに近づきつつあった。

そうやって、睡眠がある程度、整うと、私は、自分を癒す手段を探し始めた。

探さなければ何も変わらない、そのことは、この引きこもりの間で、痛いほど学んでいた。

いくら、親に恨み言を並べても、神に祈っても何も変わりはしないのだ。

だから、もう、親にも、神にも期待することはスッパリやめたのだ。

そうして、ネットで検索していると、ある哲学者が『瞑想の勧め』というタイトルの文章を書いているのが目に入った。

私の知る限り、その哲学者は、そんな瞑想をするタイプには全く思われなかった。

それで訝しげに思ったが、とにかく、読んでみることにした。

読んでみると、瞑想といっても、私のイメージとは違って、今ここに意識を絶えず戻すというものらしい。
それで、私は瞑想関連の本を読み漁って、自分なりに瞑想を始めた。瞑想をすると、わずかの時間だが、心と体から強張りが取れて何とか動くことができる。もしかしたら、瞑想の時間を長く深くしていけば、鬱から解放されるのかもしれないという希望を感じるようになった。
ところで、本の中には、原始仏教系の本もあった。
何気なく、読み進めていくと、やはりというか、親を敬えという教えがあり、特に、私のような鬱病の人には慈悲の瞑想が効果があると書いてあった。
何だか、心がざわざわしたが、仏教はキリスト教とは違うと考えて、慈悲の瞑想もやってみた。
「私が幸せでありますように…」
自分から始めて、自分の親しいもの、生きとし生けるものと範囲を広げていく。
「…私を嫌っているものが幸せでありますように」
そうして、ついには、自分を嫌っているものにまで慈悲を拡大していく。
私は、数ヶ月、これをやってみたが、やればやるほど、再び、苦しくなっていった。
心の隅に、もしかしたら、仏教なら、自分を救ってくれるのではないかという考えがあったためかもしれない。
私は、慈悲の瞑想を投げ捨て、達磨静座法という、ただ、呼吸を数えるだけの瞑想だけをするようになった。
そうして、瞑想を続けていくと、1日の中で、自分の心と体の重さを感じない雲の晴れ間のような時間を味わうようになった。