無意識さんとともに

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催眠の現象学88 私は無意識さんにずっと知られていた

この頃、実感として感じるのは、私はずっと無意識さんに知られていたということです。

 

自分が無意識さんをはっきり知ったのは、O先生の本を読むようになってからだとしても、無意識さんは、私をずっと知ってくれていたんです。

 

それはもう、胎内にいる時から、いや、胎内に宿る前からといっていいかもしれません。

 

特に、こんなふうな感覚が強くなったのは、私がまだキリスト教徒だった時のことを、最近、違った見方でできるようになったためかもしれません。

 

キリスト教を卒業したばかりの頃は、キリスト教を全否定していました。

それから、宗教アレルギーやスピリチュアルアレルギーになって、宗教やスピリチュアルにも全否定していました。

 

自分の人生が間違った方向に行ったのは、それらのもののせいだと信じて疑わなかったのです。

 

今でも、キリスト教の教えのある側面は有害なものだとは思っています。

 

けれども、無意識さんを知れば知るほど、それらに対する敵意は消滅し、フラットになって来たのです。

 

というのは、無意識さんは、これが正しくてこれが間違っているというような裁きが全くないお方だからです。

そんな無意識さんの言葉を、催眠の中で知れば知るほど、私の意識も変わっていくのも自然なのでしょう。

 

さらに、無意識は、『特定の意図を持たない、無色透明なエネルギー』と気づくに至って、さらに大きく、私の意識は変わったんです。
その言葉を読んだのは、レイキの仁科先生の本からでした。


私が、キリスト教徒だった時、癒しや奇跡やいろいろな不思議なことを体験しました。

 

そうして、そういうことは全部、否定しかなぐり捨ててしまったんですが、もし、無意識が、水のような、あるいは空気のような、特定の意図を持たない無色透明なエネルギーであるならば、あのキリスト教のあのいろいろな場面で、いろいろな教えの色と混ぜられていても、働いて様々なことを起こしていたのも、無意識さんではあるまいかと思ったわけです。


そうなると、あの悲惨なキリスト教時代も、私は知らずして、無意識さんと共にいて、無意識さんは私を知っていたということになるわけです。


そうであれば、あの時代さえもそうならば、当然、胎内にいる時も、あるいは生まれる前もそうであったと、論理的には繋がりませんが、実感としてはそう感じざるを得ないのです。

 

最近、ある人に怒鳴られるということを経験しましたが、その瞬間にも、無意識さんは私を離れることはなく、私を徹底的に知っていたのでしょう。

 

かくして、無意識の流れという川は、私を狭いところから広いところに導き、河口へと、海へと導いてくれるのです。