無意識さんとともに

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催眠の現象学163 3タイプ論再考

人が支配者、虚無、光の人に分けられるという3タイプ論について、長らく思い巡らしてきました。

どうしてそんなことをしてきたかというと、この3タイプ論は、人を救う反面、トラブルに陥れることもあると感じてきたからです。

人と人がお互いに支配者だと言ってやり合うことも見てきました。

支配者というのは、キリスト教のサタンと同じく、決定的なものとなる言葉です。
支配者だと言ってしまえば、もう仲直りしたり、和解することはなくなります。

あるいは、常に、どこででも支配者がいることに恐れる人もいます。
絶えず、支配者を避けて逃げていなければならないのです。

さらに、ある人を光の人だと思ってしまうこともいいことばかりとは限りません。光の人とすることによって神格化してしまい、光の人が言うことは全て正しいと思え、ただ光の人に付き従うばかりになってしまうのです。

自分が光の人だと思い込むことも、また、害をもたらすかもしれません。自分が神に近い存在のように感じて、自我が膨張していくからです。

そんないろいろなことを、3タイプ論を巡って、見聞きするのです。見聞きするというだけではなく、自分もそれに巻き込まれていたこともあります。

例えば、自分の母親について、最初、私の心は直接的な支配者だと言い、次に間接的な支配者になり、それからただの人間になりました。

その時々で、その答えが自分にとって必要なものだったと思うのですが、そこから浮き彫りになってくるのは、この3タイプが事実ではなく、ナラティブだということです。

特に、支配者というのは、自分が自分を傷つけてくる人と距離をとるための強力なナラティブだということです。

このナラティブがあるために、私は罪意識や遠慮を感じることなく、自分を傷つけてやまない人と離れて、自分を癒すことに集中できます。

また、虚無、光の人というのも、自分のアイデンティティを与えてくれます。

だから、3タイプ論というのは、トラウマで傷ついて激しい痛みを感じている渦中の人にとっては救いになることは間違いないのです。

けれど、トラウマがある程度癒えてきて、それでもなお、この3タイプ論を事実として信じ込んでしまうと、先ほど言ったトラブルが起こります。

その時には、これはナラティブであって、事実ではないという解毒剤が必要になる時なのです。

今は、3タイプが事実かどうかという点から考察しました。

結論は、事実ではなく、ナラティブということです。

では、事実の要素がないのかということが問題になります。

事実の要素が全く無ければ、ナラティブとして機能しないというのも確かです。

この問題を解く鍵となるのは、人の心がひとつという前提から、人の心が複数であるいう前提に代えることです。

人の心がひとつなら、支配者は虚無でも光の人でもなく、虚無は支配者でも光の人でもなく、光の人は支配者でも虚無でもないでしょう。3タイプは、事実なのか、事実でないのか二者択一になります。

けれども、パーツ心理学の言うように、人の心が複数のパーツからできているなら、支配者も虚無も光の人も、ある人のパーツであって、多面体である人間の心の一面ということになります。

だからこそ、トラウマが疼いている渦中では、このナラティブを用いて躊躇うことなく傷つける人から離れ、
トラウマが癒やされた後は、このナラティブはパーツだと知ってそこに閉じ込められることなく支配者への恐れから出ることができるのです。