イエスはまごうことなく人である。
人というは、釈迦と同じような意味で人である。
しかるに、イエスは十字架の上で殺されて神とされてしまったのである。
人は殺されて神となるのは、不思議なことでも何でもない。
例えば、菅原道真もある意味では殺されて神になったのだろう。
イエスを神にしたのは、イエスの弟子であり、とりわけパウロである。
そうして、イエスの生の言葉もまた、抹殺された。
福音書を読んでみても、そこにはごく僅かしかイエスの生の言葉が感じられない。
なぜなら、イエスを神とする信仰の言葉によって、ことごとくイエスの言葉が書き換えられてしまったからである。
けれど、それでもなお、いくつかの例外において、イエスの言葉が光を放っているのは間違いがない。
それは、放蕩息子のたとえや姦淫の女の話や、これから裏切ろうとするユダに対するイエスの言葉や神の愛についてのイエスの言葉などである。
一言で言えば、イエスの発見した愛とは、無差別の愛であり、
キリスト教の愛は差別の愛である。
「神は善人にも悪人にも雨を降らせ、太陽をのぼらせてくださる」
イエスは、神がこういう無差別の愛そのものだと知っていたからこそ、罪びととされる人たちと分け隔てなく、食事をし、交わったのだ。
この無差別の愛は、釈迦の言う慈悲とほとんど重なる。
しかし、弟子たちの教え、つまりキリスト教は、差別の愛でしかない。
キリスト教の神は、信じるものを愛し、信じないものを裁く差別愛の神である。信じるものを天国に迎え、信じないものを地獄に落とす差別愛の神である。
そればかりではない。
キリスト教では、悪魔は当然のごとく、忌み嫌われる。
悪魔は最終的に最後の審判で裁かれて、滅ぼされる。
悪魔に魂を売った人も同様だ。
例えば、ユダは、最後は「首をつってはらわたが裂けて全部出てしまった」と新約聖書に記されている。
けれど、イエスは最後の晩餐の席で、裏切ろうとするユダに何と言ったのだろうか?
「私の友よ」
ユダが自分を裏切ろうとするのを知りながらも、「友よ」と呼びかけたのである。
イエスの知っている神は、無差別の愛であり、自分を裏切るものもその愛の中に包んでいるものだからだ。
キリスト教の歴史の中で、ごくごく例外の人たちが、この無差別の愛を知っていた。
オリゲネスのように、最終的に悪魔も救われると言ったり、
シリアの聖イサークのように、愛は悪魔にも及ぶと言った人がいたが、
たいていは異端にされて断罪されている。
イエスは、無差別の愛こそが神と呼ばれるにふさわしいと悟った人間に他ならない。
だから、慈悲を発見した釈迦と変わらない。
私の中では、イエスと釈迦は、聖お兄さんの漫画のように、仲良く並んで歩んでいるのである。