無意識さんとともに

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ハコミセラピー17〜リソース

ハコミの1日体験ワークショップに、2日間行ってきました。

1日目はラビングプレゼンスで、2日目はマインドフルネスでした。

 

「自分にとって必要な体験は、安全・安心な場でしかできない」

また、

「体験が私たちをつくっている」

という言葉が印象的でした。

いつも感じるのは、ハコミに来ると、そうしようと思わなくても、自分に言い聞かせなくても、勝手にからだが安全・安心を感じて、脱力し、素の自分が出てくるということです。

そんな自分が出てきて初めて、『ああ、これがありのままの自分なんだなあ』と驚きます。

普段は、ありのままの自分と言われても、緊張が鎧のようになっていて、どれが本当の自分なのかわからなくなっているということらしいです。

そうして、ありのままの自分が、今まで得ようとしても得られなかった、「失われた体験」をハコミの場で積み重ねることができるのです。

そんな体験の積み重ねが自分の中にあるリソースやいのちを引き出してくれるようです。

今回、もっとも心に残ったのは、2日目の午前中と午後のワークでした。

午前中のワークは、「名前を呼ぶワーク」です。

人は、小さな頃から今まで、呼び名やあだ名などのいろいろな名前があります。
聞く人は、マインドフルになって、それらの名前を複数の人にピッタリくるように呼んでもらい、終わったらシェアするというものです。

私の場合は、候補が4つぐらい出てきたのですが、それぞれ呼んでもらって、最終的に、「玉ちゃん」に絞られました。

「玉ちゃん」、「たまちゃーん」、「(あっ)タマちゃん」
といろいろな調子で、何人かの人に呼んでもらっていると、自分の深いところから記憶が呼び起こされてきます。

私は、ずっと塾や予備校の先生をしていたのですが、
ある時、線路沿いを歩いていたら、「たまちゃーん」と呼ばれ、声の方を見ると、線路の向こうに中学を卒業したばかりの子が、私にそう言って手を振っていたんです。

その時は、ひとりの子がそうしていたんですが、なおも聴いていると、いろんな思い出が芋蔓式に次々に呼び起こされ、それらが重なって、
線路の向こう側には、私の生徒たちが、男の子も女の子も、私の名を呼んでちぎれんばかり手を振っているのが見えました。

それを見ていると、もう何だかこらえきれなくなって涙が出てきました。

続けて、午後のワークでは、今度は、マインドフル状態になって、8個の言葉を聞き、自分にとって一番気持ちよく感じるものを選びます。

私は、「うまくいかない時があってもいいんですよ」という言葉を選びました。

実は、この言葉がそんなに心地よかったかというとそうでもなくて、聞いた時に、自分の中からチャイルドが出てきて、
「まあ、そうだよね」という感じで、渋々うなずいていたんです。

4人の人に自分の周りを、自分のリクエスト通りの位置や高さで座ったり立ったりしてもらい、声をかけてもらいます。

最初は、この言葉通りに声をかけてもらったのでしょうか。

そのうち、私は、午前中の「たまちゃん」をこの言葉に付け加えてもらうことを思いつき、リクエストしました。
「たまちゃん、うまくいかない時があってもいいんですよ」

ところがそう呼んでもらうと、私はまた30代の頃の塾で働いていた時の自分になって、生徒がそう自分に声をかけているような気がしたんです。

言葉を生徒の言葉に少しずつ変えていきます。

また、肩や膝に手を置いてもらいました。

設定も、小学生の男の子のちょっと乱暴な言い方や、中学生の親しみのこもった言い方、高校生のちょっと冷静な言い方など変えて言ってもらいました。

最終的には、「たまちゃん、いつも私たちのことを一生懸命にしてくれてありがとう。でも少しは自分のことも大切にしてね」という言葉に変わっていきました。

何だか、この「少しは」というところがリアルで、心に突き刺さって、自分の中で抑えていたものがどっと崩れたんです。

私は熱血教師で、半年間に1日ぐらいしか休まず、本当に生徒は自分にとって宝のようでしたが、過労で最終的には鬱になって、働くこともできなくなったんです。

だから、今まで、そのことを思い出すと、頭にホワイトノイズがかかっているようで、息のできないような苦しさを感じていたんです。

ところが、気がつかなかったけれども、もしかしたらその当時でさえ気がつかなかったけれど、
苦しいなかでも、自分がどれだけ、生徒のそんな思いやり(ぴったりの言葉が思いつきませんが)の言葉を受けていたのか、
次から次へととめどなく思い出すんです。

生徒たちは、干からびた私の心に、コップ一杯の水を、その時々に注いでくれていたんだなあ。

そうして、その生徒たちが注いでくれた水は、今もちゃんとお腹に中にあって、そればかりじゃない、その水が呼び水になって、

私の中には、リソースというか、いのちというか、地下水のように豊かにとうとうと流れているんだ。

そんなことに気づいたんです。

もちろん、頭ではそんなことはわかっていたんです。

でも頭ではわかっていることを、まざまざと体験して経験したという、生の気づきだったんです。

ハコミセラピー16〜怒り

3日間のハコミの講座に行ってきました。

セラピスト枠で参加したので、この半年でBeingコースは終了ということになり、修了証をいただきました(と言ってもここから半年もリピートするんですが)。

いろいろありましたが、一番印象的だったのは2日目に、クライアント役でマインドフルネスワークというものを受けた時のことです。

その前に、いいーいやゲームというワークをやって、自分は「いや」というとものすごくエネルギーを使うということに気付いたです。
へとへとになっていました。

また、セラピスト役の人に、「いや」という時にからだが右に傾くということを教えてもらいました。

それで、マインドフル状態になってから、あえてからだを左に傾けて「いや」と言ってみるプローブ(実験)を行ってみることになりました。

そうすると、何だか、胸に何か詰まっているようで苦しくて、「いや」が言えないんです。

また、右に傾けてみると、左よりはずっと楽に、「いや」が言えるけど、それでもかなり力を入れる必要があります。

そんなことを繰り返していると、心の中に、5歳ぐらいの男の子が出てきました。

紐を後ろ手で縛られ、口にはタオルを巻かれていて、体がエビのように右に曲がっています。

紐とタオルを解いてあげると、すごく怒っているようで、「いや、いや、いや!」と叫びます。

背中を優しくさすってあげると、吐きそうな感じだったので、洗面器を持ってくると、そこに吐き出したんですが、吐き出したのはグロテスクな虫、毛虫のようにうねうねした虫でした。

洗面器がいっぱいになると、私は、庭に穴を掘ってそこに虫を入れ、その子はまた虫を吐くということを繰り返します。

そうやって吐き終わると、しばらくはぐったりしていましたが、そのうちに、ムクっと起き出しました。

ふたりで庭に行き、穴を土で埋めると、その子は、「ここに何かを植えたい」と言いました。
「何を植えたいの?」
「桜」と答えます。

桜の苗木を植えると、急速に時間が経ったのでしょうか、目の前に満開の桜の木があって、花吹雪の状態です。
その子は、桜の木の下に横になり、私も横になりました。
私たちの上には、桜の花びらが降り積もります。

桜の花びらは花火の火花のようで、でもほんのりとあたたかいんです。

気がつくと、私たちの横に、白狐がいて見守ってくれています。

しばらくすると、白狐は口を開きました。
「木の根元を掘ってごらん」

木の根元には虫たちが埋まっているので、私たちはためらっていました。

「掘ってみたらわかるから」

そう、白狐はそっと言います。

おそるおそる、その子と私は手で根元を掘ると…

虫ではなく山のような桜の花びらが出てきました。

『ああ、虫に見えたのは私たちの見方でそう見せていただけだった。

ほんとうは吐き出したものは…胸につかえていた怒りは…美しい、あたたかな、桜の花びらだったんだ』

そう気づくと、その子が即興でつくった「桜まつりの歌」を歌い出します。
(小さな子が、自分でつくった詩とメロディでよく歌うあれです)

私も何だかお腹の底から楽しくなってきます。
白狐もうれしそうにぐるぐると私たちの周りをまわります。

気がつくと、自分の中から出てきたのか、5歳の子だけじゃなく、7、8人の子供が出てきて、みんなで手をつないで、桜の木を取り囲んで、仰向けに寝て、「桜まつりの歌」を歌っていました。

そうして、その歌声とは別に、声がお腹から響いてきました。

『桜まつりは永遠に続いているよ」

私は、周りにいる人たちに、交互にその言葉を言ってもらったんです。

その後、気がつくと、怒りを悪いもの気持ち悪いものではなくて、美しいものいのちのエネルギーのように、頭ではなくて体感している自分がいるのに気付いたんです。




ハコミセラピー15〜ラビングプレゼンスを深める

日本ラビングプレゼンス協会のラビングプレゼンスの講座に行ってきました。

少人数でじっくりと丸一日、ラビングプレゼンスを練習できてとてもよかったです。
最初は心が曇り空でどんよりしていたのですが、帰る時には何だかアルプスの空気を胸いっぱいに吸い込んだみたいに、心もからだも透明で軽く感じられました。

午前中はベーシックの講座です。

あらためてラビプレの説明を聞いて、なるほどと思ったのは、「ラビプレは未来志向である」ということ。

マインドフルネスが「今・ここに」という現在であるなら、ラビプレは未来に向けて人との信頼関係をつくるということが印象的でした。

そしてラビプレをすることで、「セラピストが自らを癒す」ことになるというのが、本当に、セラピーがWIN-WINであるためにはつくづく必要だなあと感じたんです。

それから、実践をするのですが、ウォーミングアップで、今までラビプレをしてきたつもりだけれどなおざりになっているなあと思ったのは、
「全身でお風呂に入っている時みたいにいい感じを味わう」ということ。

せっかくいい感じが出てきても、足先をちょっとつけるみたいだったなあと。

そうして、全身をいい感じにすっぽり浸すと全然違う!

その後、ラビングプレゼンスそのものを、いつもとは違う人とやりましたが、相手が変わると何だか新鮮な心地いい感じが出てくるんです。

アフリカの大地で、大きな真っ赤な太陽…そうして、自分はゾウのようです。
ゾウになって、鼻で水を吸って水浴びをしたり、鼻を器用に使って木の枝の葉っぱを枝ごと口に入れて食べたり、他のゾウととともに移動してキリンやライオンの群れを眺めたり…

陽が沈むと、温度が下がって、隣には子供のゾウもいて、群れのゾウとみんなでおしくらまんじゅうのようにくっついて眠ります。
空には満天の星がピカピカ光っています。
朝、今度は黄色い太陽が昇り始めると、また群れは静かに動き出す…

そんなイメージの中に深く浸って生命の躍動感を感じていました。

目を開けると、自分も目の前の人も。同じゾウの群れの1匹(失礼)のような気がしてなりませんでした。

午後はスキルアップの講座でしたが、お昼にヒレカツランチをお腹いっぱい食べて眠たかったので、立って歩き回るマインドフルネスがちょうど良かったです。

ゆっくり足の動きや設置面を感じながら歩いて、最後に行きたい場所に行きました。

部屋の後の方に、お花が花瓶に入っていたので、何となくそこに惹きつけられました。

そうして、しばらく、花や蕾や葉に触れて、そこにある花と交流していました。

その日の最後に、今度は、花を相手にラビプレをする機会がありました。

人間相手だと、その人の色や形や色々なものが自分の中に入ってくる感じがするのですが、花相手だと、何だかとっても透明で、
自分の中に何かが入ってくるというよりも、自分と花が自然にひとつになる感じでした。

「花は見られるという意識もなく、ただそこに在って咲いている」という言葉が心に浮かびました。

しばらくの間、花になってただそこにいた感じです。

シャドーワーク

このように、容赦なく自分を見つめるには、リアリティはそのままで完全であることを見抜くと同時に、相対的な不完全さ、つまり目覚めの光がまだ届いていない場所も見抜く識別力が必要です。このような識別力を備えた目から見れば、リアリティは分割できないひとつながりのものであるけれど、絶対的な真実と相対的な真実を区別することはできるのだと理解できるのです。」(ステファン・ボディアン)

絶対的な真実=<私>(真我、大我)と相対的な真実=私(小我)は分割できないものだけれど区別はあり、<私>が私を容赦なく見つめることができ流のです。

むしろ、悟ったり右脳回帰してこそ、初めて私を見つめることができるのかもしれません。

というのも、それ以前は、私が私を見つめるのですが、それは闇が闇を見つめるようなものだからです。

<私>は完全な光ですが、私には目覚めの光が届いていない場所があるのです。

<私>が私の闇の部分を見つめていくことこそ、シャドウワークであり、セラピーでもあると思います。

スピリチュアルバイパス(<私>が完全な光であると悟っても、私の闇を放置してしまい、闇に気づけないこと)を回避するためには、そのことが必要な気がしています。

悟ったからこそ、右脳回帰したからこそ、私の闇の部分を臆せず見ていきたいと思っています。

ハコミセラピー14〜インナーサン

昨日のブログで書いた、出てきたきらきらした純粋無垢ないのちに満ちた子どもってなんだったろうと思っていた。

どうもパーツ人格とは違う感じ。

ChatGPTに聞いてみたら、インナーサン(内なる太陽)というらしい。

4つの解釈を示してくれた。

1 魂の中核・本質的な輝き

最も本質的な自己、魂の源
生命力・光・愛そのもの
どんなに闇があっても消えることのない、無条件の愛と存在そのもの

2 インナーチャイルドの成熟した側面

傷ついていない・健やかなインナーチャイルド

すでに統合された明晰さと安らぎを伴う存在

3 スピリチュアルな目覚め・光明のメタファー

 

内側の太陽は気づきの光や目覚め、アートマン(真我)の象徴

4 非二元・純粋意識としての自己

 

誰でもないけれどすべてを照らしている光、自我を超えたプレゼンスであり、個別の私ではないけれど、私を通してこの世界を照らしているもの

「あなたが出会ったその男の子は、おそらく『インナーサン』の具象化であり、あなたの中の生きる力・愛される資格・絶えざる輝きを伝えた存在だと思われます。

 

そして、彼がこう言ったのは象徴的です。

『笑っちゃうよー』

 

これは、苦しみの否定ではなく、それを包み込んで軽やかに照らすインナーサンの微笑みにほかなりません。」

最後のこの一文は、胸にするりと入ってきて、なんだか泣きそうになった。

すべての人の中に、内なる太陽が今・ここ・このからだで輝いている。





ハコミセラピー13〜もうひとりの私である子ども

一昨日、ハコミのワークショップにまた行ってきました。

午前中にやったワークは、2人1組になり、クライアント役は背中に手を当ててもらいます。
そうして、「背中に当てている手があなたに語りかけているとしたら、なんと語りかけているでしょうか?」とセラピスト役は言います。

私がクライアント役で手を当ててもらうと、まず、背骨に痛い感じが出てきました。

これは10代から30ぐらいまでよく感じていた、背骨が折れ曲がりそうになる痛みの名残りのようです。

その痛みにとどまりながら、先ほどの言葉をかけてもらいました。

すると出てきたのは…

「笑っちゃうよー」

という声でした。

かんだかい、底抜けに明るい男の子の声です。

セラピスト役に、私が聞いたそのままに、繰り返してもらいます。

「笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…」

すると、私は、薄暗闇(と言ってもほとんど暗闇、濃い紫みたい)の和室に座っているようです。

そうして姿が見えないけれど、近くに優しい気配を感じる男の子の声を聞いているんです。
私自身はなんだかちょっと悲しい感じです。

「笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…」
その声は、弾むように明るく、でも私の悲しみを弾くようではなく、悲しみを包んでくれるようです。

薄暗闇で姿の見えない男の子は、どうやら、スキップしながら私の周りをまわっているみたいです。

「笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…」

その底抜けに明るく、でもしっとりとした優しさが、心に染み込んできます。

ふと気づくと、外が明るくなってきて、窓から少しずつ光が入り込んできます。

「笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…笑っちゃうよー…」

光で、男の子のきらきらした笑顔が見えます。
その笑顔がなんだか伝染してくる感じなんです。

悲しみを拒絶する笑顔ではなく、悲しみをそっと抱くような、でも底抜けに明るい笑顔…

いつの間にか、笑い声も聞こえて、もうその笑い声がその子のものなのか、自分のものなのかわからなくなっていました。

なんだかうれし涙が出てきて、ちょっと瞼を閉じました。

それから、目を再び開けると、男の子はいません。

どうしたんだろうと思いましたが、心の奥からまたあの明るい声がしました。
「ここにいるよー」



前にこういうワークをした時には、決まって傷ついた子どもが出てきたものです。

けれど、今回、なんだか生命力のかたまりのような男の子が出てきたのは新しい経験でした。

そして、どうもこの子はずっといたみたいなんです。

私が傷ついて、ボロボロになって、鬱のどん底の中にいた時も。

私の中に、決して傷つくことのない、無邪気で、明るく、たくましいそんなもうひとりの私である子が今までいてくれた、今もいるし、これから先もずっといる…

そんなことに気づいたんです。

脱力系でいこう

ハコミのT先生に、
「姿かたちがハコミに合っているから、ハコミを極めたらいいんじゃない」(このとおりの言葉かはわからない)
と言われた。

姿かたち?

どういうことって、この言葉がずっと気になっていた。

いつもTシャツにジーンズでいること?

でも何だか、しっくりこないなあ。

そう思って、とりあえず、この言葉は心の棚にしまっておいたが、
最近になって気づいたのは、

自分って、脱力系を求めているんだなあということ。

ハコミでチェックインの時に、心理療法には、巻き込み系と脱力系があるという話をした。

巻き込み系は、先生がカリスマ的で、魅力ある言動でぐいぐいと人を巻き込んでいく。
そうして、そこに集まった人たちは先生のようになろうとして、先生の言動をコピーし、先生との距離でヒエラルキーもできる。

脱力系は、先生は普通の人のように見えるが、とにかく力や緊張が抜けていて、その場にいると、自由で自分が自分でいられる。そこに集まった人たちは先生のようになるのではなく、限りなく本来の自分が現れていく。ヒエラルキーはなく、比べ合いもない。

巻き込み系の代表格は催眠で、ミルトン・エリクソンはそういう人だと思う。
そうして、脱力系の代表格がハコミで、ロン・クルツはそういう人だと思う。

巻き込み系は、着地点や目的地があって、そこにセラピストがクライアントをリードしていく。
脱力系は、着地点や目的地はなく、導かれるままに、セラピストはクライアントについていく。

どちらがいい悪いの話ではない。

けれど、私が心の底から求めているのは、どうやら脱力系のようだ。

脱力系は、どうも、悟りとか右脳回帰につながっていて、脱力すればするほど、自分ではなく、もうすでにあるSELF(本来の自分、真我、大我、本体さん、無意識さん、自然)が現れていく。

脱力系でいこう、そんな思いがほとばしりでてくる。