無意識さんとともに

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催眠の現象学106 心と無意識は同じなのか、違うのか

心に聞くというやり方は、「心よ…」と呼びかけます。
そして、心と無意識はほぼ同じものとして捉えられています。

けれど、もしかしたら、心と無意識は重なるにしても、違いはあるのかも知れないなと思ったんです。

ひとつは、友人との対話の中で、友人が「無意識は心より広く、もっとニュートラルなもののような気がする」と言ったことでした。

確かに、心というのは個人ひとりひとりのもので、個人それなりの色、つまり個性とか性格の色合いがついているように思われます。

対して、無意識はそういう色がなく、無色透明なもののような感じがするのです。

さらに、最近、私が出たあるセミナーの中で、山口先生という方が、3重構造について話されました。

曰く、「体と心、そして潜在意識(無意識)があって、死ぬ時に、まず体が滅び、その後、どの宗教においても40日から50日の間に心も滅ぶ。けれど、潜在意識(無意識)は滅びることなく、続いていく」と(この通りの言葉ではありませんが)。
してみると、無意識は魂と言われるものに近いということになります。
もっとも、これは、無意識を実体的に捉えた時に考えられることで、無意識をメタファーとして捉えれば、また違ったことになるかもしれません。
ただ、心は個人の色がついた有限なもの、無意識は心と重なりつつも個人を超えた無色透明で無限に続くものと捉えると、いろいろなことがひらけてくるような気がするのは私にとっては事実です。

心に聞く場合、心の答えは様々です。時には間違っていると思われることもあります。

それは、心は個人の色合いのついた有限なものだと考えれば不思議ではありません。

けれども、この心と重なる、あるいは背後にあるかたちで、無限で無色透明な、個人を超えた無意識があると考えれば、「心に聞くこと」は無限の深まりを次から次へと展開し、無限の智慧と力を持った無意識そのものに聞くことになるのかもしれません。

催眠の現象学105 無意識は何も裁かない

私がもっとも赦せなかったのは、原理主義(簡単に言うと、自分たちの教え以外は全て間違っており、自分たちの教えだけが正しいという考え方)です。

どうして、そう思ったかというと、そういう原理主義は、何の差別もなく何も裁かない無意識とは違うと思ったからです。

この原理主義は、各宗教間で、あるいは同じ宗教の中でさえ、争いを絶え間なく生み出しています。

だから、そういう原理主義だけは赦せないと思ったのも、当然と言えば当然かもしれません。

もちろん、この原理主義というのは、何も宗教だけのことではなく、教えを、もっと一般的な考えという広いものにしてみれば、日常生活のいたるところで見られるものです。

「私は正しくて、お前は間違っている」

そんな言葉は、口に出さなくても、この人間世界に溢れかえっているのかもしれません。

私は、そんな原理主義さえ、この世からなくなればもっといい世界になると思っていたのです。それだけではなく、無意識さんを知ることはそういう原理主義を信じていては、決して不可能だと思い込んでいたのです。

 

けれど、何も差別せず何も裁かない無意識は、原理主義を信じる人たちと対立するものなのでしょうか?
言い換えれば、無意識は、原理主義だけは裁くものなのでしょうか?

いいえ、そんなことはないのです。
無意識は、原理主義さえ裁くことはなく、原理主義を信じる人たちと対立することはないのです。
むしろ、無意識はそういう人たちの中でさえ働いているのです。

だとしたら、そういう人たちを無意識が裁かないなら、誰がそういう人たちを裁いているのでしょうか?

私なのです。
この私が、原理主義を、原理主義を信じる人たちを裁いているのです。

過去を振り返ると、私自身、原理主義者でした。
私は、ある宗教を熱心に信じていましたが、その宗教を信じないものは、地獄に行くとまでは思っていなくても、救われていない、間違っていると思っていたのです。

 

だから、私が裁いている原理主義を信じる人とは、ある意味、過去の私であり、この私が原理主義を信じる過去の私を裁いていることになるのです。

 

そうして、今の私は原理主義を裁くことで、原理主義原理主義を信じるものは絶対に間違っているという原理主義を信じていることになっているのです。

けれども、無意識は本当に何も誰も裁かないのです、こんな原理主義を裁く原理主義に陥っている私をも裁かないのです。

無意識が裁かないなら、どうして私が裁くことができるのでしょうか?

原理主義原理主義を信じる人たちも、そういう原理主義原理主義を信じる人たちを裁く自分自身も。

無意識は裁くのではなく、空気のように全てを、何ひとつ例外なく包み込み、人間の体が水分で成立しているように、全てに浸透して、全てを生かすのです。

だから、無意識を知れば知るほど、私は裁かなくなるのです、いや裁けなくなるのです。

誰をも、原理主義を信じていた過去の私をも。

 

催眠の現象学104 自己犠牲はかたちではなかった

親も、その後、信じたキリスト教も、私に、自己犠牲を強いてきました。

親は子どもは親のために生きるべきだと教えることによって、キリスト教は人間は神のために自己を犠牲にすることが愛であり美しいものだと示すことによって。
だから、FAPや催眠を受けて、この自己犠牲から脱しようとした時に、重力に逆らって大気圏を突き抜けるロケットのように、自己犠牲と見えるものはすべて拒絶しようと思ったわけです。

思っただけではなく、自己犠牲と思われるものには吐き気さえ催しました。

その時、私が自己犠牲だと思ったものはどんなものかと言われれば、「人が自分以外の誰かのために、報酬を得ずに何かをすること」というかたちでした。

このかたちをとるものは、どんな関係、どんな状況において、自己犠牲だと思ったのです。

ところで、レイキというものを知った時に、五戒というものがあることを知りました。

そうして、その中に、「人に親切に」という一文があるのです。

これは痛く、私の心を刺激しました、そう、『また、自己犠牲かよ』と心の中で叫んだものです。
けれど、私は、とりあえずは、そのことに蓋をして、レイキを学びました。

ところで、私の友人も、レイキを学ぶことになったのです。

友人と書きましたが、私にとって、キリスト教と全く無関係な友人はこの人だけです。

もちろん、キリスト教に入る前に友人はいましたが、キリスト教に入る時に、そういうのんクリスチャンの友人は遅かれ早かれ縁を切ることになり、また、キリスト教の中ではお互いに自己犠牲の競争をし合う友人はいましたが、キリスト教を出る時に、共に出た一人を除いて、縁が切れたのです。

だから、私は普通の友達付き合いというものがよくわからないのです。

友人は、2月に私がパワハラを受けてからは特に、弱っている私のために、レイキを、また心の癖の改善をしてくれました。

「苦しい時は、いつでも言ってくれればするから」

そして、実際に、いつでもそうしてくれたのです。

私は感謝しながらも、何だか、相手に自己犠牲を強いているのではないかという気がしていました。

果ては、私は友人の地元に行って、対面で心の癖の改善を受けたのです。

そこでだんだんと身にしみてわかってきたことは、友人が私にそうしてくれるのは、決して自己犠牲では全くなく、本当に喜んでやってくれるということです。

自己犠牲というのはかたちのことではなく、そこに心が伴うかどうかということなのだということがわかりました。

その時に、「人に親切に」という言葉も、心が伴うならば、自己犠牲ではないのだと気付いたのです。
このことがわかった時に、私は相手に依存することなく、相手に頼ることができたような気がしました。
実は、依存は相手を信頼することではなく疑うことであり、相手を信頼するならば相手に依存することなく頼り、そこに差し出された心をただ感謝して受け取ることができるのです。

このことを教えてくれた友人にただ心から感謝するばかりです。

催眠の現象学103 根源的なもの

人は、こうすれば必ずこうなるという教えや原則、公式みたいなものを求めやすいのかもしれません。

私の場合は、過去を振り返ると、それがキリスト教だったわけです。

全ての答えはもう聖書に示されていて、あとはその通り、聖書の言葉通りに従うかどうかといったことだったのです。

そうなると、自分で何かを感じたり、考えたりする必要はないのです。

もう、答えは決まっているのです。

自由な感覚も思考も封印されて、私は灰色の、聖書の命令をインプットされれば、それを忠実に果たすだけのロボットに必死になろうとしていた気がします。

ところが、キリスト教を卒業したとしても、そういう変わらない、何か絶対的なものを求める自分の性向は残っていたようです。

大嶋先生から学び、吉本先生から学び、ミルトン・エリクソンから学んでも、そこから公式のようなものを得ようとしていたことに気づきました。

もちろん、大嶋先生にしても、吉本先生にしても、エリクソンにしても、そんな公式のようなものを教えているわけではないのですが、

私は彼らの言ったことを公式化して、その公式化したものをそのまま遵守し実行することで、満足しようとしていたのです。

けれど、いくら表面的に言ったことをなぞったとしても、彼らの言っていることをメソッド化して、そのメソッドを収集してコレクションにしても、

それそのものを生み出す根源的なもの、無意識と繋がること、自分の感覚と思考を開いて本来の自分にかえること、時と状況と相手に応じて方法そのものを生み出していくことはできないのです。

彼らをモデリングするとしても、そのモデリングの根本的なことは、彼らが無意識と繋がっているその繋がり方を観察して、自分も無意識と深く繋がること、それがモデリングの目的であるのです。

静止した変わらないものを求めて、運動しているものの一瞬の姿を写真で捉えても、当の対象そのものは、どんどんと動いて変化して、また新たなものを生み出していくのです。

ところが、無意識に突き動かされて生き、動き、本来の姿へと変化していくことを真似て、自分も無意識に動かされて、生き、動き、変化していくならば、対象も違うように見えてくるのかもしれません。

催眠の現象学102 心の声を聞くステージ

今まで、心に支配と邪魔の排除をしてもらうことを強調してきました。

そのことについては変わりないのですが、それに加えて、最近は、何でも心に聞いてさらに心に聞いたことをやってみるということも大切なことだとしみじみ感じています。

と言っても、これは、心との関係で、人それぞれ、段階というかステージがあるようです。

私自身、

① 心に支配と邪魔の排除を集中的にしてもらうステージ(ただし、これはずっと続けるものです)

② 心の声を聞くことができるようになるステージ

③ 心は従うべき神様ではないと知るステージ

④ 心に何でも聞いて聞いたことをやってみるステージ

と心との関わりが変化してきたように思います。

特に、③は長いこと続きました。

ただし、この③は人によっては必要のないステージなのかもしれません。

私の場合は、キリスト教を卒業してもキリスト教の影響はかなり残っていたので、そして、キリスト教時代は神様の声を聞いていたので、③のステージが長かったのかもしれません。

もしかしたら、他の宗教でも同じかもしれませんが、神様の声というのは、従えば祝福がありますが、従わなければ罰や呪いがあります。

まあ、普通は、そこまで露わな言い方はせずに、「神様の声に従わなければ、祝福から外れる」というような言い方をしますが、まあ、実質的な内容は同じことです。

ところが、心は神様ではなく、心の声というのは、従わなくても罰や呪いがある、祝福から外れるというものではないのです。

と、以前にも頭では分かっていたのですが、なかなか、身にしみてわかるのは時間がかかりました。

だから、心は、時に、心に聞いても、返事をしてくれなかったり、「自分で考えて、自分で判断して、決めなよ」という言い方をすることがあったのです。

まあ、その時は、心に見捨てられたような、心が冷たいような気がしたものですが、心は神様ではなく、依存すべき神様ではないことを学ぶのに必要な段階だったのです。

依存することと信頼することは違うのです。

絶対に従わなければ祝福を得られないということであれば、それは依存であって、信頼ではありません。

このステージを通るために、心は自分を見捨てることなく、自分を導いてくれた、そんな気がするのです。

催眠の現象学101 またまた心の癖の治療〜インナーチャイルドに出会う

ようやく、不調の波から脱して、少し前はこの不調の前の状態ぐらいには戻ったのです。

けれど、この気温のアップダウンが関係しているのか、それとも他のことが関係しているのか、おとといぐらいから、また波に飲まれてしまい、だるくて何をする気にもなれませんでした。

迷いましたが、思わず、友人に遠隔で、レイキか心の癖の改善を頼みました。

友人の言うところでは、心は心の癖の改善を示して、「強迫的な思考で不安になる」とのことです。

 

その日の20時ぐらいに、友人は心の癖の改善をしてくれたのですが、やってもらっている間、低周波治療機にかけられているようなレイキの振動を、頭から足の先まで、ずっと感じていました。

以前、遠隔で受けた時より、強烈に感じました。

友人のレイキが強くなっているのか、それとも、一度、直接に受けたから脳のネットワークがつながりやすくなっているのかもしれません。

終わってもなお、しばらく、レイキが流れているのを感じ続けていました。

友人の方ではやっている間、5,6歳の子供の私がイメージで見えたそうです。

苦虫を噛み潰したような表情をしていて、孤独感を感じているようだったとのことです。

だんだん表情が明るくなっていき、軽やかな印象に変わっていったということです。

 

次の日、朝、まだだるさは残っていて、一度起きてからもう一度横になってしまい、何とか1日を送れそうだと思ったのですが、

だんだんとだるさが激しくなっていきました。

 

それで、予定をキャンセルして、だるさに抵抗せずにじっとしていました。
何だか、やたらに空腹感が酷く、しかも子供が食べるようなものが食べたくてたまりません。

心に聞くと、食べてもOKということだったので、子供が食べるようなものをかなりの量、食べました。

夜寝ると、夢を見ました。

5,6歳からは成長したのか、私は小学生ぐらいになっていて、母親のいる家から遠く離れて、どこか知らない街を自転車で彷徨っているのです。

自転車で彷徨っている間、いろんな人と出会います。

それは、初恋の女の子だったり、友達の男の子だったり、知らないけれども親切なおじさんだったり、おばあさんだったりお爺さんだったりします。

彼らとコミュニケーションをとるたびに、別れ際に、綺麗な飾り紐をくれるのです。

ひとりが一本、女の子は赤い紐を、友達は青い紐を、おじさんは緑の紐をといった具合です。

私は右の手のひらを開いて、その紐を受け取るのですが、その時、手のひらに相手が触れる相手の指先の温もりをまざまざと覚えているのです。

 

そのたびに、私はぐんと力を感じました。

 

昼は、夕方になり、さらに夜へと移り変わっていきます。

 

小学生の私は、どんどんと年齢を重ねて行って、最後は中1ぐらいになりました。

 

私は紐を右手首に巻いたまま、家に帰ろうとしました。

けれども、家への道はなかなか見つからず、とうとう真夜中を過ぎ、明け方になり、次の日の朝を迎えてしまいました。

 

けれども、ようやく、家を見つけて帰ると、案の定、母親はカンカンでした。

 

母親は怒って、私の手首にかかる紐の束をちぎろうとしました。

でも、それらはちぎれず、余計、怒るのです。

 

その姿を見ていると、私の頭は何だか、どんどんと冷静になって、

子どもの私は、母親に言い放ちました。

「もう、あなたが私の母親である時は、私があなたの子どもである時は、終わったんだよ」

 

母親はその場にヘナヘナと座り込んでしまいました。

 

私は、母親に別れを告げ、また家を後にするのでした。


今朝、この夢を見たのですが、気がつくと、身体中が汗でびっしょりでした。
そして、何だか、静かに回復しているようでした。

あの子どもは、私のインナーチャイルドだったのでしょうか?

催眠の現象学100 中指ビンゴを使って心に聞きながらレイキ

この頃は、心に聞く(例えば、大嶋信頼「支配されちゃう人たち」参照)と中指ビンゴ(大嶋信頼「本当の私よこんにちは」参照)を使ってレイキをしています。

これは、私がやり出したものではなく、友達がやっていたものをそのままやらせていただいたものです。
レイキをすると言っても、どこに手を置いたらいいか、なかなかわかりません。

本人に、「どこが悪いですか?」と聞いて、そこに手を当てても、そこが本当の原因かはわかりません。

それで、ヒビキ(不調箇所が発する温感、ジリジリなど)を探っていくのですが、そのために時間がかかります。

あるいは、本人が何となく具合が悪く、どこが不調箇所か全くわからない場合もあります。

そんな時に、心に聞きながら、中指ビンゴで指を振れば、不調の原因がわかります。

例えば、友人がだるくて、調子が悪いと言っていました。遠隔レイキをしようということになったのですが、案の定、どうしたらいいか困りました。

それで、指を振りながら心に聞くと、「腎臓が疲れている」と言ってきます。

この頃、私自身も夜間頻尿がありましたから、これは自分のことではないかと疑いました。

けれど、何度聞いても心が言うので、とにかく、腎臓に遠隔で手を置いてみることにしました。
ピリピリという感じが手に来て、これだと思いながら、ずっと手を当てるとピリピリ感はずっと小さくなっていきました。後で聞くと、そう言えば、前に血液検査で腎臓の数値が高かったそうです。

とこんな感じなのですが、これに慣れてくると、そもそもレイキをするかどうかも心に聞いてわかるのです。
普通は、遠隔レイキでも、あらかじめ、相手にレイキをする了承をとるのですが、友人にはいつでもレイキしていいよと言ってくれました。

それで、時折、ゲリラレイキを友人にするのです。
その日は、やたら早く朝4時に目が覚めてしまいました。
それで、セルフレイキをしようと思ったのですが、心は友人にレイキするように言います。30分、前頭部と部位も指定してきます。
そうして、やれやれと思いながら、30分、心が言った通りに、遠隔でレイキしました。
後で、友達にあのレイキは意味があったのかと思い、尋ねましたが、友達は4時ごろに目覚めて、自分がレイキされているのを感じたそうです。
調子良く出かけることができたとのことです。

その友達のしていることをそのまま真似をして、その友達に返しているわけですが、心に聞く+中指ビンゴ+レイキは大きな可能性がありそうです。