キリスト教の世界に長くいたが、自分が真の意味で変わることはなかった。
もちろん、精神が高揚して『これで自分が変わったんだ』と思われることは何十度とあり、神秘体験と言われるものも数知れず味わったが、それらによって自分が本当に変わったことはなかったのだ。
キリスト教でも他の宗教でもあるいはスピリチュアルでも、そこには美しい、なるほどそうだと思える言葉や教えはあるのだが、
結局のところ、自分で自分の心を説得し操作しようとするところに尽きる気がする。
しかし、自分=意識で心を操作できると考えているところにそもそも無理がある。
それは、決して成功しない試みなのだ。
吉本流臨床催眠を学んでみて、これは単なる治療のための一技法では決してなく、自分のものの見方、考え方、感じ方が、つまり、自分の世界が明らかに変わっているのに驚く。
しかも、それが一時的なものではなく、樹木が年輪を描いて成長していくような、着実で永続的なものであることにさらに驚嘆する。
ああ、自分が人生で求めていたものはここにあったのだと微笑んでしまう。
そして、変容とは、無意識が暴風となって吹きつけるような神秘体験ではなく、天に昇るかと思われるような精神の高揚でもなく、意識が無意識をコントロールし利用することでもなく、ただ、限りなく本来の自分に帰り続けること=意識と無意識の統合にあるのだと、気付かされるばかりである。