B1C
自分が経験した神秘体験は以上のようなものだった。そして、私はこれらの神秘体験をキリスト教の枠組みに当てはめて解釈した。その行き着く先は当然、クリスチャンになることだった。そして、クリスチャンになってどんなに苦しいことがあろうとも、この神秘体験があるために、キリスト教の中から抜け出ることはなかなかできなかった。
自分には、これらの神秘体験を完全否定してキリスト教から出るか、それともこれらの神秘体験を肯定してキリスト教のうちにとどまるかの二者択一しかないように思われた。
しかし、それも一種のダブルバインドであって、神秘体験は神秘体験として認め、しかもキリスト教から出るという第三の道があったのだ。
そもそも、こういう体験をキリスト教の枠組みで解釈する必要はなかった。
第1の体験について言えば、すべてのものがまるで生まれたばかりのように新しく新鮮に見えるという体験を、私は『神がいる』と解釈したのだが、禅仏教徒なら一種の悟り、不二一元論者なら覚醒、科学者なら妄想かホルモンの乱高下だと解釈するだろう。
そもそも解釈することさえ必要もないのかも知れない。
だが、私はこの3つをキリスト教の枠組みで解釈し、神に近づこうという性欲動の道を邁進していった。それが自分を幸福にしてくれると信じていたが、これは初めは甘く、後に耐えられないほど苦いものになった。
教会にいた老人が自ら言ったのを思い出す。
「洗礼を受けたばかりの人は何も知らずに喜んでいるが、後は茨の道だよ」
若い私は聞いて憤慨したが、今にして思えば、あの老人は思わず本音を漏らしたのだと思う。
今、強く、思うのは、キリスト教は無理ゲーだということだ。
椎名麟三という作家が、聖書を読むと、「空を飛んでごらん、あらっ飛べないの?だったら地獄行きね」と言われている気がすると言っていたが、さもあらん。
おや、先走りすぎた。話を元に戻そう。