このO先生の答えは思いがけない、しかし決定的な一撃だった。
父なる神と子供である人間の親子関係はまさにキリスト教の根本である。それが支配ならば、キリスト教自体が支配であると言ってもいいだろう。
そして、私自身が、母親に支配される息苦しさからキリスト教の神を信じたことを考えると、実は、信仰自体がよく言われているように、実の親子関係から、よりよい親を求めての親代えであって、ひとつの支配関係から別の支配関係に移ったに過ぎない。
もちろん、キリスト教2000年の歴史の中には、こういう神と人間の親子関係を否定しようとした人もいるにはいる。
例えば、マイスター・エックハルトは、「神を離脱せよ」と説いた。
その意味は、私流に解釈して、『神との支配関係から脱せよ』と受け取っても間違いではないだろう。
加えて、彼は「神は無である」と言った、つまり神というものがあるとすれば、それは神という名前、支配関係から離れた、人間には知られないものだということだ。
けれど、エックハルトは異端審問にかけられ、断罪された。
このように、エックハルト、さらに今でも敬愛するH神父のように、キリスト教の中にあって、神と人間との支配関係から自由になろうとすることはあり得ないことではない。
しかし、それは、例外中の例外であり、迫害を受ける覚悟が必要であり、リアルか精神的にせよ、イエスのように十字架につけられることになるかもしれないのだ。
自分の人生をそんなことに捧げる気はしない。
ここに至って、つまり、神と人間との親子関係が支配だとわかってしまったことによって、私がキリスト教を信じることは不可能になってしまった。
O先生がそう言ったからではない。
O先生にそう言われて、自分でも心のどこかでそう思ってきたことが、白日の下、暴露されてしまったのだ。
私は、キリスト教を卒業した。
それでも、キリスト教的なものを自分に残したかったに違いない。
イエスとキリスト教は違うと思った。だから、クリスチャンではなく、イエスチャンと名乗ればいいのではないかと思った。
キリスト教38年間、イエスは私のすべてだと言ってもよかった。
だから、その時点でもイエスとのつながりはとっておきたかった。
けれど、キリスト教を卒業すれば、イエスはもはや神ではあり得ない。
素晴らしい人であっても、神ではない。
釈迦もイエスも人間である。
支配とは、誰かを、また何かを神格化することであるならば、どんなに素晴らしい人であっても、釈迦もイエスもただの人間である。
それなのに、わざわざ、イエスチャンと名乗ることの胡散臭さを自分に感じざるを得なかった。
私は、キリスト教を、キリスト教的なものも含めて、卒業した。