かつての私は、自分が人間であることに罪悪感を覚えていたのかもしれない。
排泄、性的なこと、眠ること、食べること、感情を表すこと、お金を必要とすること…それらひとつひとつに言い知れない恥ずかしさを覚えて、そういう自分が醜いものに思われてたまらなかった。
例えば、小学校、中学校と、私はなるべく学校にいる間、トイレに行かないようにしていた。
そうして、できれば、そういうようなことをしないで済むようになりたかった。
そう思ったからキリスト教に入ったのか、それともキリスト教に入ったからそう思ったのか、おそらく答えは両方だろう。
一体、何になりたかったのか?
おそらく、出すことも交わることも食べることもない天使になりたかったのだと思う。
10代の頃には、自分がそういう天使になれると夢見ていて、そういう夢が破れそうになった時、つまり、10代の終わりに、夢を繋ぎ止めるために、キリスト教に接近したのだろう。
まことに、宗教というのは、決して成功することはない天使製造機である。
人間は、天使になろうとしては1日たりとも、人間を生きられない。