無意識さんとともに

https://stand.fm/channels/62a48c250984f586c2626e10

内省

私たちは、自分のことは自分が1番よく知っているように思う。けれど、それは錯覚であって私たちは他人という鏡を通してしか自分を見ることはできない(鏡像段階 ラカン)。

そういうわけだから、今度は裏返しに言うと、私たちが他人について知っていると思うことも、実は他人という鏡に映る自分の姿を通してである。

自分の姿を知れば知るほど、ただ自分の姿を通して、他人を知ることになる。そう言えるのは、自分も人間、他人も人間だからである。同じ構造を持っているからである。

O先生がチューニングして、相手のことをまるで直接知っているかのように見えるのは、見えるだけである。私たちは他人の深淵を直接、知ることはできない。そうできるとしたら、超能力者か神の位置に置いてしまうことになる。

そうではなくて、O先生が自分のことを深く内省していて、それが瞬時にできるために、O先生は自分の深淵を通して、相手の深淵を推し量ることができるということだろう。

ところで、反省と内省は違う。反省は「自分についての何か、言動や性質など一部を省みる」のであるが、内省は「自分そのもの、存在の根っこを直視する」のである。

つまり、大人になった後は、反省というのは単なる自意識であって、他人という鏡なしに自分の何かを振り返ることができる。そこに後悔はあっても、痛みというものはない。

けれど、内省は、他人という鏡の中に、「これは他人のものだと思ったその姿の中に自分の姿そのものを読み取る」ことだから、激しい痛みと震動が伴う。

反省は明るくたやすい、内省は意識の力ではできない、薄暗闇であり無意識の力を借りてのみできる。でも、内省した先に、「私たちは無である」という意識の明るさとは違う別の明るさがあることを知れば、その薄暗闇も安心して降りていけるのかも知れない。