「万法帰一」という言葉があるらしいです。
意味は、すべての方法はひとつのことに帰りつくということです。
心と体を調えるいろいろなメソッドがあります。
誰もがいろいろなメソッドを試して自分に合ったものを探し出そうとするのではないでしょうか?
そうして、『これだ』と思えるメソッドが見つかると、決められたものを守って、繰り返し、基本を習得しようとします(『守』の段階)。
この段階においては、他のメソッドがあることを聞いても、それに見向きもしません。
自分に合ったメソッドが見つかると、あれではなくこれと、そのメソッドを全面的に受け入れ、信じようとするのです。
それもまた、必要なことなのかもしれません。
さらに、身につけた基本をベースに自分なりの工夫を加えていって、少しずつ基本を破っていきます(『破』の段階)。
この段階においては、メソッドそのもの、基本そのものを一字一句守ることが大切なのではなく、その奥にあるものをつかもうとして、そこにあるものを目指して、自分なりの工夫を加えていくのです。
メソッドそのものを信じるのではなく、メソッドの目指すものを信じることに変わっていくのです。
もっと進んでいくと、基本そのもの、メソッドそのものから、ある意味、離れて、自分独自のオリジナルのメソッドを生み出します(『離』の段階)。
この段階に来ると、まだ、守や破の段階にいる人から見ると、そのメソッドに対する裏切りであるかのように見えます。
けれど、メソッドの奥にあるものは、そのメソッドに決して縛られるものではなく、大空のように限りもなく、何にも縛られていない自由なものであることを知ってしまうのかもしれません。
その時は、感謝してそのメソッドを卒業し、ただただ、大空を吹き抜ける風に身を委ね、自分の飛びたいように飛ぶばかりなのかもしれません。
さて、メソッドの奥にあるもの、すべてのメソッドの帰り着くところとは何でしょうか?