こんなことがありました。
2年ぐらい前のお正月に、おせち料理にも飽きて、とんかつ屋さんに行きました。
そうして、注文する前に、私はいつもの習慣で心に聞きました。
「心よ、今日は何を食べたらいいでしょうか?」
「今日は、ヒレカツを食べた方がいいよ」
これは至極もっともな答えで、確かに、脂質を抑えようとしている私は、ロースよりヒレを食べるのが合っていたのです。
ところが、なんだか、この答えに満足できない私は、からだに聞いてみることを思いつきました。
少し前からフォーカシングでからだの感覚を探ることを始めていた私は、からだにも聞いてみることができると思ったのです。
「からだよ、今日は何を食べたらいいでしょうか?」
からだにも心に聞くのと同じような聞き方で聞いてみたのです。
すると、
「今日は、カキフライが食べたーい」
なんだか、小さな子の声のような声で答えが返ってきました。
『ああ、そうなんだ。私は、カキフライが食べたかったんだ』と合点がいって、美味しくカキフライを食べました。
後で振り返ってみると、心とからだに効いたのでは違いがあることに気づきました。
心は、「〜した方がいいよ」と答えました。
それに対して、からだは、「〜したい」と答えたのです。
心は、無意識の自分の思いを答え、
からだは、無意識の自分の感情や感覚を答えているのです。
無意識の自分の思いと、意識の自分の思いには距離があります。
だから、意識の自分は無意識の自分に従うことになります。ちょっと無理がありながらも、従うという感じです。
ところが、無意識の自分の感情や感覚と、意識の自分の感情や感覚には、距離があるわけではなく、ただ気づかなかっただけで、『カキフライが食べたーい』と言われると、なんかしっくりする感じがして、『ああ、自分はカキフライが食べたいんだ』と素直に気づくことができる感じがあるのです。
もしかしたら、意識と無意識の統合というけれど、それは心でなされるのではなく、からだにおいてなされるものかもしれない、そんなふうに思えるのです。
けれど、それは心を置いてけぼりにするというのではなく、からだにおいて心とからだも自然に一致する、意識と無意識も統合される、そんな場所があるのではないかと思うのです。
そうして、「心に聞く」とは別に「からだに聞く」を探っていくと、なんだか楽になるような感じがあるのです。
もちろん、それは「からだに聞く」ことが「心に聞く」ことより優れているというのではありません。
「心に聞く」は、無意識の自分の思いを知りたい時に、また特に何かを選択しなければならない時に、今も使っています。
でも、「からだに聞く」は、思いだけではなく、無意識の感情や感覚を知って自分がどういうものなのか、全体的に知ることができるのです。
感情や感覚というのは、思いよりもさらに無意識の中核にあるような気がするのです。
(続く)