無意識さんとともに

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「心に聞く」と「からだに聞く」4

こんなことがありました。


2年ぐらい前のお正月に、おせち料理にも飽きて、とんかつ屋さんに行きました。
そうして、注文する前に、私はいつもの習慣で心に聞きました。
「心よ、今日は何を食べたらいいでしょうか?」

「今日は、ヒレカツを食べた方がいいよ」

これは至極もっともな答えで、確かに、脂質を抑えようとしている私は、ロースよりヒレを食べるのが合っていたのです。

ところが、なんだか、この答えに満足できない私は、からだに聞いてみることを思いつきました。
少し前からフォーカシングでからだの感覚を探ることを始めていた私は、からだにも聞いてみることができると思ったのです。

「からだよ、今日は何を食べたらいいでしょうか?」

からだにも心に聞くのと同じような聞き方で聞いてみたのです。

すると、

「今日は、カキフライが食べたーい」

なんだか、小さな子の声のような声で答えが返ってきました。
『ああ、そうなんだ。私は、カキフライが食べたかったんだ』と合点がいって、美味しくカキフライを食べました。

後で振り返ってみると、心とからだに効いたのでは違いがあることに気づきました。

心は、「〜した方がいいよ」と答えました。

それに対して、からだは、「〜したい」と答えたのです。

心は、無意識の自分の思いを答え、

からだは、無意識の自分の感情や感覚を答えているのです。

無意識の自分の思いと、意識の自分の思いには距離があります。

だから、意識の自分は無意識の自分に従うことになります。ちょっと無理がありながらも、従うという感じです。

ところが、無意識の自分の感情や感覚と、意識の自分の感情や感覚には、距離があるわけではなく、ただ気づかなかっただけで、『カキフライが食べたーい』と言われると、なんかしっくりする感じがして、『ああ、自分はカキフライが食べたいんだ』と素直に気づくことができる感じがあるのです。

もしかしたら、意識と無意識の統合というけれど、それは心でなされるのではなく、からだにおいてなされるものかもしれない、そんなふうに思えるのです。

けれど、それは心を置いてけぼりにするというのではなく、からだにおいて心とからだも自然に一致する、意識と無意識も統合される、そんな場所があるのではないかと思うのです。

そうして、「心に聞く」とは別に「からだに聞く」を探っていくと、なんだか楽になるような感じがあるのです。

もちろん、それは「からだに聞く」ことが「心に聞く」ことより優れているというのではありません。

「心に聞く」は、無意識の自分の思いを知りたい時に、また特に何かを選択しなければならない時に、今も使っています。

でも、「からだに聞く」は、思いだけではなく、無意識の感情や感覚を知って自分がどういうものなのか、全体的に知ることができるのです。
感情や感覚というのは、思いよりもさらに無意識の中核にあるような気がするのです。

(続く)