光は光であって、光以外の何者でもない。
光は、ただただ照らすだけであって、光自体は何かを教えたり、何か情報を与えたりしない。その人のありのままを照らすだけである。
光には影がない。光は自分の出す光によって照らされているから、影がない。
イエスは、ひとりの光の人だった。
私は、ブッダとイエスの区別がついていなかった。しかし、心が教えてくれたのは、ブッダは虚無の人、イエスは光の人だと言う。
イエスは光の人であって、光を放ち、多くの人がその光に照らされたが、イエスが光そのものではない、光を伝える人間である。
そして、キリスト教はもちろん、光そのものではない。
「光には影がないが、宗教は影がある。いやむしろ、宗教は光を封じる影である」と。
だから、宗教とは光を封じるために、支配者が作り出したものなのかもしれない。ただ、光はいくら封じても光は漏れてくるものなのである。
真の神、偽りの神という言い方をあえてすると、光が真の神、光が封じるために支配者が作り出した教えや概念や宗教というシステムが偽りの神ということになるだろう。
けれど、光は神という言葉では伝えられない。
光には色がない、神という名前の色さえついていない。
光は、無色透明の光であって、色がついていたら、ありのままを照らし出すことはできないから光ではないのである。
光は光であって、光を知るためには、光に照らし出される以外にはない。
光に照らし出される時、私たちは光を見たり崇めたりするのでは決してなく、ただ自分の本来の姿を見る、その時に知らず知らず、光そのものに直面しているのである。