これから書くことは、まだトラウマの影響の最中でもがき苦しんで人向きではなく、トラウマ治療が進んでそれでも何だかすっきりしない人向きのことです。
だから、まだトラウマで苦しんでいる人はここで閉じて先を読まないでください。
ここでも、3つのステージがあるような気がしています。
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自分の外に支配者がいて、自分を支配したり邪魔したりしているというのは、ナラティブによる外在化です。
だから、この支配者というナラティブがあることによって、トラウマに苦しむ人は自分を責めることなく、自分のトラウマを扱うことが可能になります。
そういう意味では、外に支配者がいるというナラティブは大きな意味があります。
ところが、そういう有効な支配者というナラティブも、トラウマ治療が進んでくると、有効とは言えない面が出てきます。
というより、このナラティブを事実として信じ込んでしまうと、次のステージに行くのを妨げてしまうのかもしれません。
一つには、こういうナラティブだと、どこまで行っても、恐れから完全に自由になることはできません。
なぜなら、外に支配者がいるということは、そういう支配者は自分の自由になるものではなく、そういう支配者に出くわす可能性は常にあるからです。
また、言い方を変えれば、人と行き違いが生じた時に、普通であれば、単なる行き違いですが、『この人は支配者だ』と思ってしまえば、それは決定的なものになるからです。
そうして、この世界はどこまでも支配者が牛耳っているという悲劇的な世界観から逃れることができません。
もう一つは、この支配者というナラティブを事実として信じることによって、このナラティブに閉じ込められてしまうのです。
確かに、私の中には、外の人の影響を受けて起こるものもあれば、そうではなく、自分そのものの思考や感情や感覚もあるはずです。
ところが、支配者というナラティブは、ともすれば、全部が全部、支配者の支配や邪魔のせいで起こるというふうに考えてしまいがちになるのです。
そうする方が楽と言ってもいいかもしれません。
そうなると、自分の思考や感情や感覚が何かという方向には決して向かわずに、支配者の支配や邪魔を絶えず探し続けることになりえます。
それは終わることもありません。
生涯の終わりまで、支配者の支配や邪魔をモグラ叩きのように探し続けることになるでしょう。
けれど、支配者というナラティブが、治療のためのものであることを考慮してみれば、これは本末転倒に違いありません。
支配者というナラティブは、トラウマ治療が進むある程度のところまでは必要だったのですが、そこから先はもう役目を終えたのです。
(続く)