A先生はひとりの方にデモセッションをされて、私はZOOMを通してそれを見たんです。
ハコミのセッションを見るのは2回目でした。
ここでは、もちろん、その内容は書きません。
ただ、そのセッションを見ながら、自分が気づいたことと自分に起こっていたことを書きたいと思います。
まず印象的だったのは、クライアントが話を進めていこうとするタイミングで、
「⚪︎⚪︎をもう少し感じてみていただけますか?」
「⚪︎⚪︎にもうちょっととどまってあげるのはいかがですか?」
「⚪︎⚪︎をただそのまま感じてみてはどうですか?」
などという声がけ。
もちろん、ただ話を進めていこうというタイミングというのではなく、そこに、感情やいろいろな想いが出てくるタイミングということです。
その感情や想いというのも、ただ言葉で表されているとは限らず、相手の表情やしぐさ、姿勢などから読み取っていることが窺い知れました。
この声がけそのものは、フォーカシングでもフェルトセンスにとどまるということであるのですが、そういう言葉以外のものを読み取って促すということはハコミ独特のように思いました。
こういう声がけがかなり多くありました。
クライアントはそこにとどまると、ストーリーではなく、癒しの体験プロセスが展開して行くようです。
そういうとどまることを促す言葉がけはなされるのですが、普通、傾聴で行われるリフレクション(伝え返し)や、また客観的情報を得るための質問もないことが、あらためて驚きでした。
セラピストは、クライアントのストーリーは理解しつつも、表情やしぐさ、姿勢に現れる暗黙のものを追っているようです。
セッション後に、質疑応答があった時に、A先生はこんなことをおっしゃっていました。
「ハコミは話を追うのではなく、話し手を見る」
「今、何がクライアントに起きているかを見ていく、観察というより観賞」
観察というより、鑑賞、なるほどと思いました。
ちょっとひいて俯瞰的に、全体として話し手を捉えているということでしょうか。
けれど、もちろん、それは単なる科学者的な態度というだけではなく、
「悲しみも出てくるね」
「胸が痛くなる感じだね」
とところどころ、絶妙なタイミングで、共感的な言葉がけもなされていきます。
ただ、それが単なるそういう言葉というのではなく、ラビング・プレゼンスから出ている言葉だと思われます。
そして、圧巻なのは、相手の状態に合わせた実験的な言葉がけ(プローブ)。
「⚪︎⚪︎さん、何もかもひとりでやらなくてもいいんですよ」
この言葉をマインドフル状態になってもらって聞いたクライアントの反応を、さらに肩代わりして(テイクオーバー)、セラピストが繰り返します。
すると、クライアントの心の流れが何だか違った方向に展開していくのが感じられます。
…
最後に、「今の平穏な状態で、その会話を外側から眺めることができますか?」
「自分に何て言いたいですか?」
「そのぎゅを感じて終わりましょうね」
これは、分離体験と、催眠で言えば、一種のアンカリングと同じような定着させるものなのでしょうか。
ところで、私はこのセッションを聴きながら、自分の母親と自分の関係に想いを巡らしていました。
同時に、セッションを受けているような感じでした。
実は、デモセッションの初めに、ラビング・プレゼンスをやっていて、遊園地のティーカップに乗っている若い女性と子どもの姿がイメージとして浮かんでいました。
私はそのイメージを味わっていて、心地よさを感じていました。
今、思い返してみると、小さな頃、私は東京の練馬区に住んでいたので、遊園地と言えば、豊島園でした。
もしかしたら、豊島園に母と行ったことがあったのかもしれません。
母のイメージが変わったことは、催眠の現象学166 母親で書きました。
簡単に言うと、母はネグレクトで過干渉な母親でしたが、自分が赤ちゃんとして母親の膝に載せられているイメージを見た時、私の目に映る母は10代の女の子のような未熟な母で、私を愛していなかったわけではなくて、まるで可愛いお人形を自慢するような愛で私を愛していたということがわかったのです。
それ以来、今までは、母について悪い思い出しかなかったのに、ポツポツと良い思い出が思い出されてきているのです。
このティーカップのイメージもそのひとつなのかもしれません。
ぐるぐる回るティーカップ、ティーカップの中には母と幼い私しかいません。
私は無邪気に喜んでおり、母は無邪気に喜ぶ私を見て喜んでいました。
私には、もう今は亡くなりましたが、この母こそが自分の母親で、そこには切っても切れない絆があるのだと、デモセッションを見ながら、感じ、私もまたそこにとどまり、それを味わったのです。