そこから、通りを右へ歩いて行き、突き当たりで今度は左に曲がった。ママは怜とにこにこしながら、話している。こんなママは本当に久しぶりで、わたしまでうれしくなってくる。
右側を歩いていると、パンを売っている小さな店があり、そしてその隣に中学校があった。
『もしかしたら、ここはうえっちの中学校?』
そうして、前をママと歩いている怜に、後ろから声をかけた。
「怜、ここって東村山第3中学校?」
「ええ、よく知っているわね。パパの仕事場で塾もやっていて、よくここの中学校の生徒が来てるって話よ」
そうなんだ、だとすると、私の白昼夢ではなく、本当にうえっちに出くわすかもしれない。
そして、私たちはまた、一緒に道を歩き始めるかもしれない。
そう思うと、何だかいても立ってもいられないような気がした。
新青梅街道に出て、道路を渡り、右に曲がり、しばらく歩くと、コンビニが見えてきて、その手前を左に入り、また右に道なりに歩く。そうすると、住宅街の中に、プレハブの建物が1棟あった。自転車が数台停められている。そして、玄関には、大きな木の札がかかっていて、『無限塾』と書かれている。
『無限塾?不思議な名前ね』
怜は、そのまま、ドアを開けて入って行き、私たちも続けて入った。
すると、スリッパをバタバタいわせて、男の人が出てきた。背が高く、ひょろりとして、何より若い、若すぎる。二十代前半ぐらいにしか見えない。怜のパパってこんなに若いの?
「いらっしゃい、先生は奥の部屋で待っておられます」
「ありがとう、植木さん。えーと、こちらは塾長の植木さん」
怜のパパではなかった。自分の早とちりにひとりで顔を赤らめた。
そのまま、真っ直ぐに奥の部屋に行って、ドアを開ける。
すると、真ん中に大きなテーブルがあり、イスが手前に二つ、奥に一つあり、奥のイスに、黒縁メガネで、髪を七三に分け、白いシャツの上にVネックの紺のセーターに黒いスラックスをはいた中肉中背の男の人が座っていた。
私たちを見ると、イスから立ち上がって近づいてきて、にこやかに笑いながら言った。
「よくいらっしゃいました」
「どうぞ、よろしくお願いします」
ママはやや緊張しているようだ。
「では、お嬢様は怜と一緒に」
私たちは、ママを残して、右側の小さな部屋に入った。ここは書庫なのか、スチール製の本棚が所狭しと並べてある。塾をしているというだけあって、参考書や入試問題集や進学資料が多かったが、窓側の右のここだけ黒檀のどっしりした本棚には、明らかに違う種類の本が並べられていた。どれもエリクソンという言葉が入っているものが多かった。
「エリクソンってどんな人?」
「わたしもよくわからないけど、お父様が研究している催眠療法家らしいわ」
試しに『ミルトン・エリクソンの心理療法セミナー』という分厚い本を取って、パラパラとめくってみる。書いていることは難しくないが、何を言っているのかわからない。頭が混乱してくる。
そうこうしているうちに、怜のパパが顔を覗かせて、「終わりましたよ」と言ってくる。
ママは怜のパパの後ろに立っている。
ちょっとぼうっとはしているが、いつになく、晴れやかな顔だ。
お礼を言って、怜と怜のパパを残して、そこを後にした。
ママは憑き物が取れたように、足取りが軽い。
「ママ、どうだった?」
「それがよく覚えていないのよ。なんか、お話みたいなものを聞いた気がするわ」
「お話?」
「そう、なんか童話のようなお話」
わたしは何だか訳がわからなくなった、お話でママの病気がよくなるのかしら。けれど、ママの顔を見ると、明らかに何かが違っている気がする。
『あっ』、その瞬間、私たちは道路の右側を歩いていて、再び、中学校の前を差し掛かったところだったが、左側を向こうからやってくる男子が見えた。自分が知っているその男子とは、背も髪型も違っていたが、明らかに同じうえっちだった。
近寄って声をかけたいと思った、声をかけなければと思った、ここで声をかけなければわたしたちの道は分かれ道のままだと思った。
けれども、声をかけることはもちろん、近寄ることもできなかった。
なぜなら、うえっちの隣には、女性がいたから。うえっちと親しそうに話す、高校生ぐらいの、でも髪をロングにしてスラリとしたモデルのような人が…。