その有名な伝道者は、僕を前に招いて、頭に手を置いて祈ってくれた。
「主よ、この子はまだ子どもなのに、我と我が身をあなたにお捧げする決心をいたしました。どうぞ、その貴重な決心を受け入れ、あなたの恵みを降り注ぎ、この子をあなたの御言葉を伝える伝道者、また牧師としてください。主イエス様の御名によって、アーメン」
みんなも共に祈り、アーメンと言ってくれた。
その日から、僕は特別な目で見られるようになった。
何だか、光ちゃんよりもちやほやされている気がした。何と言っても、僕は神様のことを伝える伝道者、牧師志望のエリートなのだ。牧師先生も自分の息子以上に、僕を愛おしむように見てくる。
母は、自分の願いがかなったと思ったのか、僕以上に喜んでいた。僕は母の誇れる息子になった。
僕は、この献身の決心にふさわしく生きようと思った。
母が、毎朝、読んでくれる聖書以上に、自分から新約聖書を読み出した。
僕の新約聖書にはふりがなが振ってあったけれど、僕には正直、ちんぷんかんぷんだった。
まだ、福音書(イエスについての伝記のようなもの)はいい。イエス様には親近感が感じられたから。でも、その後に出てくる使徒の働きやパウロの手紙に至っては、読んでいるといつの間にか、眠ってしまう。
それでも、僕は読み続けた。
それだけでなく、僕は大人がするようなお祈りをできるように努力した。
「今日のご飯はカレーをお願いします、アーメン」とかいうお祈りはしなくなった。「主よ、今日もあなたの御心をなすことができるように、助けてください」というように祈った。
そうして、家でも、教会でも、学校でも、なるべく、模範生になり、人に優しくしようとした。
けれど、そうしようとすればするほど、僕はあの子どもが持っている無邪気な喜びから離れて、生まれながらの老人になり、生きながらにして枯れ草を食べているような気持ちになっていった。
僕は、鏡を見ることを恐れていたから自分の顔がどんな表情かわからなかったけれど、学校の友達からは『死神博士』とありがたくないあだ名をもらった。
僕はそう言われて囃し立てられても怒らない。怒りを露わにしない。
聖書には、『あなたの敵を愛せよ、あなたを迫害する者のために祈れ』と書いてあるから。
心の中に湧き上がる怒りを神様という万力で無理矢理抑え込んで、僕は相手に微笑む。相手からすれば不気味に思えて、余計、死神博士と思うのも無理もないのだが、僕にはわからなかった。
そして、『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのですから』と心の中で祈り、実は彼らを裁いて、徹底的に馬鹿にしていた。