そんなつもりはなかったけれども、どうやら、今まで怒りをエネルギー源にして生きてきたらしいんです。
母親のネグレクト、そしてキリスト教界で受けた傷、この2つのトラウマがありました。
FAP(トラウマセラピー)を受けて、このトラウマ自体は癒やされたのですが、それでも母親とキリスト教に対する怒りがいつも自分のバックグランドにくすぶっていたような気がします。
小さな頃から母親と対立し、また、20歳頃からはキリスト教の中で理不尽だと思われることを経験し、
私は怒りをエネルギー源にする以外の生き方を知らなかったようなんです。
だから、トラウマそのものがなくなっても、私は自分のエネルギー源を奪われまいと、トラウマの残骸にしがみついて、それに対して怒ることで生きていたんです。
そんな自分のことが全然わからなかったんです。
ところが、他人はうっすらと私の中に流れている怒りを察知していたのかもしれません。
「もしかして、怒っていない?」
「いや怒っていないよ」
「でも、なんか怒っているように感じるんだけど」
「全然怒っていないよ」
そんな、漫才みたいなやり取りの繰り返しの中で、相手に怒りを爆発させてしまうこともあった記憶があります。
また、私は、ニュースを読むのが好きだったんです。
そのニュースとは、大抵、正義の怒りを煽るものです。
私は、そういうニュースを読んで、自分の中の、消えそうになる怒りに新たな薪をくべて、怒りの炎を燃え上がらせていたようです。
けれど、ひとつ前のブログで書いたように、母に対する見方が変容してしまったことで、私はその怒りのエネルギーの動力源をひとつ失いました(詳しくは催眠の現象学168をご覧ください)。
ひとつだけではありません。
私は、自分の経験から、キリスト教は支配そのものであって、キリスト教は人間を不幸にするものだと信じてやまなかったのですが、
キリスト教を信じても、自由に幸福に生きている人がいるらしいことを知りました。
また、あるカウンセラーとのカウンセリングで、こんな質問をしました。
「私は、今もキリスト教を信じていた時と同じように、⚪︎⚪︎という現象を経験するのですが、どういうことでしょうか?」
彼はちょっと考えた後に言いました。
「それは、あなたが今も大いなるものとつながっているということかもしれませんね」
その瞬間に、私は、母親が不完全で未熟でありながらも私を愛してくれたように、キリスト教もまた不完全で問題はたくさんあっても私はそれを通して切れることのないつながりを、大いなるものと持っていた、今も持っていることに気づいたんです。
それで、私は自分の怒る対象を2つとも失ってしまったんです。
そればかりではなく、私は、ある人に土のカウンセラーだと言われて、土、それは下へと向かうグラウンディングの方向だと思い、
レイキ、フォーカシング…とからだの声を聞くことを求めてきました。
そうして、からだの声が教えてくれたのは、心地よさをじっくり味わい、心地よさをエネルギー源として生きるあり方でした。
もちろん、怒りそのものが悪いものではありません。
怒りは大切な感情で、怒りは自分を傷つけるものから自分を切り離してくれるエネルギーを持っています。
けれど、怒りは一時的なエネルギー源で、それをずっと使い続けるのは難しいものかもしれません。
からだはそのことを知っているようです。
そして、からだの声に耳を澄ませることで、心とからだの分離が癒され、からだ=本来の自分が望む心地よさをエネルギー源にすることで、心とからだはさらにもっと統合されていくのです。
それこそが、今の自分が望んでいることのようなんです。